エベレスト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
エベレスト
エベレスト
北側から望むエベレスト
標高 8,848 m
所在地 ネパールの旗 ネパールサガルマタ県ソルクンブ郡
中華人民共和国の旗 中国チベット自治区ティンリ県
位置 北緯27度59分17秒 東経86度55分31秒 / 北緯27.98806度 東経86.92528度 / 27.98806; 86.92528座標: 北緯27度59分17秒 東経86度55分31秒 / 北緯27.98806度 東経86.92528度 / 27.98806; 86.92528
山系 ヒマラヤ山脈
種類 褶曲隆起
初登頂 エドモンド・ヒラリーテンジン・ノルゲイ1953年
エベレストの位置(ネパール内)
エベレスト
エベレスト
エベレストの位置(チベット自治区内)
エベレスト
エベレスト
エベレストの位置(中華人民共和国内)
エベレスト
エベレスト
エベレストの位置(アジア内)
エベレスト
エベレスト
Project.svg プロジェクト 山
テンプレートを表示

エベレストエヴェレスト: Everest)、またはチョモランマチベット語: ཇོ་མོ་གླང་མ[注 1]Chomolungma, Qomolangma)、サガルマータネパール語: सगरमाथा Sagarmāthā)は、ヒマラヤ山脈にある世界最高峰である。

山頂は、ネパール中国との国境上にある。

エベレストインド測量局Survey of India)で長官を務めたジョージ・エベレストにちなんで命名された。

1920年代から長きにわたる挑戦の末、1953年にイギリス探検隊のメンバーでニュージーランド出身の登山家であるエドモンド・ヒラリーとネパール出身のシェルパであるテンジン・ノルゲイによって初登頂がなされた。

エベレストの標高については諸説あり、1954年にインド測量局が周辺12か所で測定し、その結果を平均して得られた8,848メートルという数値が長年一般に認められてきた。1999年、全米地理学協会はGPSによる測定値が8,850メートルだったと発表した[1]。厳密には地殻変動などの影響によって標高は年々変動していると考えられている。

エベレストの南麓に位置するネパールのサガルマータ国立公園ユネスコ世界遺産に登録されている。

名称[編集]

ジョージ・エベレスト

現在、エベレストはネパールでは「サガルマータ(सगरमाथा Sagarmatha)」、チベットでは「チョモランマ(ཇོ་མོ་གླང་མ་ jo mo glang ma)」、中国では珠穆朗瑪峰(Zhūmùlǎngmǎ Fēng)または聖母峰(Shèngmǔ Fēng)と呼ばれている。

エベレストの存在が初めて文献上にあらわれたのは1717年康熙帝の命令を受けてイエズス会士ジャン・バティスト・レジス(Jean-Baptiste Régis)が『皇與全覧図』と呼ばれる中国地図を作成したときであった。そのチベット部分、現在のエベレストの位置に山の絵が描かれ「朱母郎馬阿林」(チュムランマアリン)と表記されている。この地図はレジス神父の故国フランスに送られ、それを受け取った同僚のイエズス会士ジャン=バティスト・デュ・アルドが地図製作者のジャン・バティスト・ブルギニョン・ダンヴィル(Jean-Baptiste Bourguignon d’Anville)に託し、ダンヴィルによって1735年、『中国新地図集』(Nouvel Atlas de la Chine)として出版された。ダンヴィルの地図では「チュム・ランクマ」(Tchoumou Lancma)と表記されている。これがヨーロッパに「チョモランマ」の名称が初めて紹介されたときである[2]

イギリス東インド会社は1765年以降、測量局を設けてインド各地の詳細な地図の作成を行っていた。1815年、ベンガル、ボンベイ、マドラスにあった3つの測量部が統合されてインド測量局が発足。さらに1818年8月1日にはインド大三角測量部(The Great Trigonomentrical Survey of India)が別に設けられ、三角測量のエキスパートであるウィリアム・ラムトン(William Lambton)が部長に、28歳の士官候補生ジョージ・エベレストが主任助手に任命された。1833年に組織改編で大三角測量部がインド測量局の傘下に入り、ラントンの逝去によってエベレストが二代部長となった。1830年にはエベレストはインド測量局長官も兼務することになる[3]

エベレスト長官はインドの南岸からヒマラヤ山麓までの三角測量を終え、1843年にアンドリュー・スコット・ウォーに長官職を譲って退任した。ウォー長官の時代にヒマラヤ山脈の山々の計測が行われ、まずカンチェンジュンガが世界最高峰であると考えられた。しかし、彼らはさらに奥地にある山に興味を持った。この山は初め「ピークb」(Peak b)、次に「ピークh」(Peak h)のちに「ピーク15」(Peak XV)と呼ばれるようになる。インド測量局の主任測量士でデヘラードゥーンに駐在していたラーダナート・シクダール(Radhanath Sickdhar)がピーク15の測量を行い、海抜8,840メートルという標高を算定した(シクダールはエベレストが世界最高峰であると考えた最初の一人であるとされている)。ピーク15の地域はネパールとチベットに挟まれていたが、どちらの国にも入国ができなかったため、インド測量局では山の地域での呼称を確定できなかった[4]

1856年3月、ウォー長官はピーク15が8,840メートルでカンチェンジュンガの測量値(8,582メートル)よりも高く、おそらく世界最高峰であるという書簡を王立地理学協会に送付した。この書簡の中で、ピーク15の名称を「地方での呼び名は数多くあるだろうから、どれか一つを選ぶのは難しい」として、前任長官のエベレストにちなんで山の名前を「エベレスト山」(初めMont Everest、のちにMount Everest)としたいとし、以下のように述べた。

「尊敬する前長官のサー・ジョージ・エベレスト大佐(Colonel Sir George Everest)は、すべての地形に現地での呼称を採用するよう、私に教えてきた。しかしこの山には、おそらく世界最高峰であろうこの山には、現地での呼称を見いだすことができなかった。もし仮にそれがあったとしても、私たちがネパールへの立ち入りを許可される前に、それが見つかることはないだろう。今のところ、この高峰を名づける特権と責任とは、同等に私に委譲されているものと思う。この山の存在が、市民と地理学者に広く知られ、文明国家に深く浸透するかは、この高峰の名称いかんにかかっているであろう」

まだ存命中だったジョージ・エベレスト自身は、この名前がヒンディー語と無関係でインドの人々に発音できない名前であるとして反対し、地理学協会にその旨を書き送ったが、1856年8月に開かれたベンガル・アジア協会の会合で世界最高峰の発見が報告されたあとの9月に王立地理学協会が「エベレスト山」の名称を受け入れ、インド政庁も承認した[5]。ちなみに現在のエベレストの発音(IPA:/ˈɛvərɪst/または/ˈɛvərɨst/ EV-er-est)と実際のジョージ・エベレストの発音(/ˈiːvrɪst/ EAVE-rest)は異なっている。

ピーク15の名称については、ネパールに駐在した外交官ブライアン・ホジソンが1856年に地元で「デヴァドゥンガ」(Devadhunga)と呼ばれていると唱え、1907年にはインド測量局の技師ナタ・シン(Natha Singh)が地元の民が「チョー・ルンブ」(Chho Lungbhu)と呼んでいることを記録している。1909年にはエベレスト登攀のための情報収集をしていたグルカ連隊の将校チャールズ・グランヴィル・ブルース(Charles Granville Bruce)がクーンブ地方の出身のシェルパから「チョモ・ルンモ(Chomo Lungmo)」という名前を聞いている。他にも19世紀の終わりには「チョモカンカル(Chomokangkar)」というのが山の名前であるといわれたこともあったが、インド測量局は一貫して「エベレスト」の呼称を用い続けた[6]

1950年代に入って中国政府がチベット名「チョモランマ(Chomolangma、珠穆朗瑪)」を採用した。これは「世界の母なる女神」の意味であるという。1960年代にはネパール政府が「サガルマータ(世界の頂上の意味)」という名称を示した。この名前はネパールの著名な歴史学者バーブラーム・アーチャリヤが1938年に文芸誌『シャルダ』に紹介したものだが、カトマンズでは知られていない一部の地域での名称だった。ネパールは以後、この名称を使い続けている[7]

山の名称に人名を用いたことについては王立地理学協会やインド政庁でも議論があり、悪しき先例になると考えた人々も多かった。エベレスト山という名称が受け入れられたあとで、世界第2位のK2に関しても名称を「ウォー山(Mount Waugh、1860年)」あるいは「ゴドウィン・オースティン峰(Godwin-Austen、1886年)」としようという動きがあったが、いずれも地理学協会やインド政庁が受け入れなかった[8]

標高[編集]

画像ラベル
エベレスト
画像ファイル(環境により文字がずれることもあります)
エベレストを中心に捉えたパノラマ写真
国際宇宙ステーションから望むヒマラヤ山脈

1852年、インド測量局の技師でベンガル出身のインド人測量技師、ラーダナート・シクダール が240キロメートル離れたインドから三角測量した結果、「ピーク15(Peak XV)」 という仮称で呼ばれていた山が世界最高峰であることを発見した。当時ネパールは「禁断の王国」であり、外国人は入ることはできなかったため、より近距離での測量は不可能だった。測量の結果によればピーク15の標高は約8,840メートル(29,002フィート)だった[9]

現在最新の標高は8,848メートルとされているが、ほかにもいくつかの異なる標高が測量結果として報告されている。2番目に高い山はK2で、標高8,611メートルである。2005年5月22日、中国のエベレスト測量隊はエベレストに登頂、数か月にわたる測量の結果、同年10月9日にエベレストの標高は8,844.43メートル±0.21メートルと公式に発表した。彼らはこの数値がこれまででもっとも正確な標高であるとしている。しかし、この標高はもっとも高い岩石の部分に基づくもので頂上部分の氷や雪は含んでおらず、モンブランテンリタグといったほかの高峰の標高の基準と異なっている。測量隊は雪と氷の厚みも測量しており、この結果は3.5メートルだったことから、8,848メートルという従来の測量結果に誤りはなかったことになる。しかし実際のところ雪と氷の厚みは変化するため、正確なGPSによる測量がなければ、厳密な標高を求めることは不可能とされている。

現在もっともよく知られている8,848メートルという標高は、1955年のインドによる従来より近距離からの測量によって、初めて求められたものである。1975年の中国による測量でも同様の結果が得られた。どちらも頂上部分の氷雪の厚みを含んだものである。1999年5月、ブラッドフォード・ウォッシュバーン率いるアメリカエベレスト遠征隊は山頂にGPSユニットを設置、8,850メートルという測量結果を発表した。これによれば岩石部分の標高は8,850メートル、氷雪を含めるとさらに1メートル高いとされている。ネパール政府は正式にこの測量結果を認めていないが、この数値は広く用いられている。1999年と2005年の調査双方にジオイドの不確かさという問題が指摘されている。

エベレストの標高は周辺のプレートテクトニクスにより年々高くなっており、山頂も北東へと移動していると考えられている。現在2つの報告書が、エベレストは年4ミリメートルの速さで標高が高くなっており、また山頂は年3 - 6 ミリメートルの速さで北東へ移動しているとしている。しかし、ほかの報告書の中には横方向への移動はもっと速く(年27ミリメートル)、標高は縮むことさえあるとしているものもある。またエベレスト山頂では風化が激しく、地殻変動によって一時的に8,848メートルを超えてもその分は侵食されてしまうため、エベレストの標高はこれ以上高くならないという説もある。

エベレストはもっとも高い海抜高度をもつ山である。しかし、ハワイマウナケアエクアドルチンボラソがエベレストに代わる「世界最高峰」とする主張もある。マウナケアの海面からの標高は4,205メートルだが、海底からの高さを考慮すればその標高は10,203メートルを超えることになる。また海抜高度6,267メートルのチンボラソ頂上はアンデス山脈の最高峰ですらないが、地球の形状は赤道に近づくほどに膨れており、地球の中心からの高さは6,384.4キロメートルになる。これは、エベレストの6,382.3キロメートルよりも2,168メートル高い。

また、もっとも深い海であるマリアナ海溝チャレンジャー海淵はエベレストの標高よりも遥かに深い。もしエベレストをチャレンジャー海淵の深さに沈めたとすれば、山頂ですら2キロメートルもの深度に沈むこととなる。

地質[編集]

3つの層
山体はチョモランマ層、ノース・コル層、ロンブク層の3つに区分される。それぞれが低角度の衝上断層で境される異地岩体である。ゴンドワナ大陸の一部であったインド亜大陸白亜紀マダガスカル島から分離し、新生代ユーラシア大陸に衝突し、ヒマラヤ山脈ができた。頂上から8,600メートルのチョモランマ層はエベレスト層とも呼ばれ、石灰岩ドロマイトシルト岩からなる。オルドビス紀を示す三葉虫ウミユリの破片を含む。
標高ごとの地層
8,600メートルから7,000メートルのノース・コル層のうち、上部8,200メートルまでが有名な「イエローバンド」で、エベレストの写真にはっきり写る白い帯である。大理石が風化して黄褐色になったもので、ウミユリを含む。8,200メートルから7,600メートルは千枚岩片岩からなる。7,600メートルから7,000メートルは片岩に大理石薄層が挟まれる。以上の変成岩泥岩頁岩砂岩、石灰岩などからなるフリッシュが変成作用を受けたものである。7,000メートルより下のロンブク層は片岩と片麻岩で、さまざまな厚さの白粒岩の岩脈岩床が無数に貫入している。

登頂史[編集]

1893年、探検家として知られ、政務官を務めていたフランシス・ヤングハズバンドと第五グルカ・ライフル連隊の勇将として鳴らしていたチャールズ・グランヴィル・ブルース准将(Charles Granville Bruce)がチトラル(現在のパキスタン)のポロ球戯場でエベレスト登頂について話し合ったのが、具体的なエベレスト登頂計画の嚆矢であるといわれる。[10]1907年にはイギリス山岳会の創立50周年記念行事としてエベレスト遠征隊の派遣が提案されたが、実現しなかった。しかし、北極点到達(1909年)および南極点制覇(1911年)の競争に敗れたことで、イギリスが帝国の栄誉を「第三の極地」エベレストの征服にかけていくことになる。遠征計画は第一次大戦の勃発によって先送りになるが、戦争の終結とともにイギリス山岳会と王立地理学協会エベレスト委員会を組織し、ヤングハズバンドが委員長となって、エベレスト遠征計画の具体化が始まった。

1921年エベレスト委員会によって第一次エベレスト遠征隊が組織される。隊長にはグルカ連隊で長年勤務し、地理に明るく、地元民の信頼も厚いチャールズ・グランヴィル・ブルース准将がふさわしいと思われていたが、軍務に影響があるという理由で回避され、代わりに中央アジアを巡回した経験を持つ歴戦の英雄チャールズ・ハワード=ベリーCharles Howard-Bury)中佐が選ばれた。隊員としてカシミール地方に詳しく高度と人体の影響に関しての専門家であったアレクサンダー・ケラスAlexander Kellas)博士、医師のサンデイ・ウォラストンSandy Wollaston)、測量班としてのちにインド測量局の長官をつとめることになるオリヴァー・ウィーラーOliver Wheeler)、インド測量局の局員ヘンリー・モーズヘッドHenry Morshead)、地質学者のアレクサンダー・ヘロンAlexander Heron)、登攀部隊のリーダーとして50代のベテラン登山家ハロルド・レイバーンHarold Raeburn)、若手登山家として知られていたジョージ・マロリーとオーストラリア生まれのジョージ・フィンチが選出された。フィンチは直前になって健康を理由にメンバーから外され、代わってマロリーの登山仲間だったガイ・ブロックGuy Bullock)がマロリーの推薦によって選ばれた。第一次遠征隊は登頂そのものでなく、登頂のための周辺調査とルート確認を目的として英国を出発。インドのカルカッタに上陸後、ダージリンからチベットを回り込んでエベレストを目指した。チベットのカンパ・ゾンでは、体調がすぐれなかったケラス博士が心臓発作で亡くなるというアクシデントに見舞われたが、遠征隊はエベレストのノース・コル(North Col、チャン・ラとも呼ばれる、標高7,020メートル)にいたるルートを確認するとともに、エベレスト周辺の詳細な地図を初めて作成することに成功して帰国した。

1922年には第二次遠征隊が送り込まれた。隊長として宿願であったチャールズ・グランヴィル・ブルース准将がつき、エドワード・リーズル・ストラット(Edward Lisle Strutt)大佐を副隊長に迎え、前回参加できなかったジョージ・フィンチハワード・サマヴィル(Howard Somervell)博士や エドワード・ノートン、同地方の地理にも詳しい医師のトム・ロングスタッフ、 同じく医師のアーサー・ウェイクフィールド(Arthur Wakefield)博士、ブルース准将の甥でやはりグルカ連隊所属のジェフリー・ブルース(Geoffrey Bruce)大尉と同僚のジョン・モリス(John Morris)大尉、さらに前回のメンバーであるマロリー、モーズヘッド、遠征隊の模様を映写機で撮影することになるジョン・ノエル(John Baptist Lucius Noel)大尉らが選ばれた。第二次遠征隊は3度の頂上アタックを行った。7,620メートルの地点に設けられた第五キャンプから第一次アタックチームを率いたマロリーは、酸素ボンベなどは信頼性が低いと考えてこれを用いず、サマヴィルやノートンらと無酸素で北東稜の稜線に達した。薄い空気に苦しみながら、一同は8,225メートルという当時の人類の最高到達高度の記録を打ちたてたが、天候が変化し、時間が遅くなっていたため、それ以上の登攀ができなかった。次にジョージ・フィンチとウェイクフィールド、ジェフリー・ブルースからなる第二次アタックチームは酸素ボンベをかついで5月27日に8,321メートルの高さまで驚異的なスピードで到達することに成功した。ブルースの持っていた酸素器具の不調で第二次チームが戻ってくると、マロリーはフィンチ、サマヴィルと第三次アタックチームを編成して山頂を目指そうとした。しかし、マロリーらがシェルパとともにノース・コル目指して斜面を歩いているとき、雪崩が発生して7名のシェルパが命を落としたため、一行は失意のうちにベースキャンプに戻り遠征は終了した。

1924年の第三次遠征隊では1922年同様、隊長はブルース将軍が務め、副隊長にはノートン大佐が選ばれた。隊員として経験者のジョージ・マロリー、ジェフリー・ブルース、ハワード・サマヴィルが選ばれ、さらにベントリー・ビーサム(Bentley Beetham)、E・シェビア(E.O. Shebbeare)、地質学者でもあったノエル・オデール、マロリーと最期をともにしたアンドリュー・アーヴィンらが選ばれた。一行は2月28日にリヴァプールを出航、3月にダージリンへ到着し、3月の終わりにダージリンから陸路でエベレストを目指したが、道中でマラリアのためブルース将軍が離脱、ノートンが隊長になった。4月28日、遠征隊はロンブクに到着してベースキャンプを設営し、そこから順にキャンプをあげていった。彼らは7,000メートル付近に第四キャンプを設けて頂上アタックの拠点とし、そこから頂上までの間に2つのキャンプを設けることにした。ノートンはサマヴィルとともに酸素ボンベなしで頂上を目指し、途中から一人で北壁をトラバースし標高8,572メートルに到達、人類の最高到達記録を更新したが引き返した。マロリーは6月8日、22歳の若いアンドリュー・アーヴィン1人を連れて第六キャンプを出発、酸素ボンベを使用して山頂を目指した。2人はこのまま行方不明になり、第三次遠征隊は山を下りた。

第三次遠征隊が許可のないロンシャール谷に入っていたこと、彼らが帰国後に上映した記録映画の中で紹介されたチベット人の習俗が不正確であったことが当時のダライ・ラマを怒らせ、以後9年間エベレスト入山の許可が出なかった[11]

1933年、イギリス第四次遠征隊。隊長ヒュー・ラットレッジ(Hugh Ruttledge)、隊員にはフランク・スマイス(Frank Smythe)、ジャック・ロングランド(Jack Longland)、パーシー・ウィン=ハリス(Percy Wyn-Harris)、レイモンド・グリーン(Raymond Greene)、ローレンス・ウェイジャーエドワード・シェビア(Edward Shebbeare)、 トム・ブロックルバンク(Tom Brocklebank)、 1922年隊にも参加したコリン・クロフォード(Colin Crawford)らがおり、のちに遠征隊の隊長を務める歴戦の登山家エリック・シプトンもその中に含まれていた。この遠征では高度8,570メートルが最高で登頂はできなかったが、ウィン=ハリスが頂上近くでアーヴィンのものとされるアイス・アックスを発見したことで有名になる。同隊ははじめてエベレスト遠征にラジオを持参した。

なお、1933年4月3日スコットランドの貴族、第14代ハミルトン公爵ダグラス・ダグラス=ハミルトンが操縦席がむき出しの複葉機(ウエストランド機)に乗り込み、エベレスト山頂の上を飛び越えるとともに史上初めてエベレストの空撮に成功した。

1934年、イギリスの奇人モーリス・ウィルソン(Maurice Wilson)が飛行機を山腹に不時着させ単独登頂をするという計画を立てたが、不許可となる。登山経験のないウィルソンは「霊的な助け」によって頂上にたどりつけると信じ、2人のシェルパを雇ってノース・コルのふもとまであがったが行方不明になる。

1935年、イギリス第五次遠征隊。登頂目的でなく、エリック・シプトンをリーダーにモンスーン時の気候を調査する目的で派遣された小規模のグループだった。ノース・コルのふもとでテントに包まれたモーリス・ウィルソンの遺体と日記を発見。隊には1938年隊の隊長になるビル・ティルマン(Bill Tilman)がいた。また、ニュージーランド出身のダン・ブライアントをシプトンが気に入ったことが、のちにエドモンド・ヒラリーが遠征隊に参加する道を開くことになる。有名なテンジン・ノルゲイが若手シェルパとしてエベレスト行に初参加した。

1936年、イギリス第六次遠征隊。1933年の失敗を批判されて以来、隊長就任を固辞していたラットレッジが適任者不在を理由で再び隊長に引っ張り出された。1924年隊のノエル・オデールも参加を打診されたが、年齢を理由に辞退している。エリック・シプトン、フランク・スマイス、ウィン=ハリス、チャールズ・ウォレンピーター・オリヴァーらが参加。日程の当初は雪も少なく天候にも恵まれて成果が期待されたが、直後に例年よりも早いモンスーンが到来したため、隊はほとんど何も成果を得られず帰国し、「最低の遠征隊」と酷評されることになる[12]

1938年、イギリス第七次遠征隊。隊長はビル・ティルマン。再び小規模な遠征隊を組むことにし、隊員としてシプトン、スマイス、ウォレン、オリバーら経験者が選ばれた。古参のノエル・オデールも再び参加。天候の悪化のため登頂を断念し、遠征隊は帰還。

翌年以降は第二次世界大戦の影響で登山は行われなかった。

1949年、ネパールが鎖国を解き、初めてネパール側の登山が可能になる。逆に、それまで唯一のルートだったチベット側は中国の支配下に置かれたことで閉鎖された。ネパールの開国は、戦前アジアに強い影響力を持ったイギリスが独占してきたエベレスト遠征に世界各国が参加できるようになったということを意味していた。

1951年、イギリスのマイケル・ウォードトム・ボーディロン(Tom Bourdillon)、ビル・マーリがネパール側から入って山頂へのルート探索を行うことにし、エリック・シプトンを隊長として迎える。ネパール到着後、クムト・パルバット遠征を終えたニュージーランド隊から2名、アール・リディフォードエドモンド・ヒラリーが参加。シプトンは1935年にメンバーだったニュージーランド人ダン・ブライアントに好印象を持っており、そのことがニュージーランド人の参加につながった。一行は難所アイスフォールを突破しウェスタン・クウムにいたる、現在でもよく使われる南東稜ルートを発見する。この遠征の帰途メンルン氷河の近くでシプトンは雪上に残る「巨大な足跡」を発見、のちに未知の生物「イエティ」のものだと喧伝されることになる。[13]

1952年スイスがネパールから1952年の入山許可を得たが、イギリスは1953年の入山許可しか得られなかった。動揺したイギリスは合同遠征隊を提案するが拒否される。スイス隊はエドゥアール・ウィス・デュナンを隊長とし、アルプスで鳴らした屈指の登山家たちレイモン・ランベール(Raymond Lambert)、アンドレ・ロッシュルネ・ディテールエルンスト・ホッフシュテッターらを擁してエベレストに挑んだ。同隊はシェルパとしてテンジン・ノルゲイを指名して参加を要請、テンジンはこれが4度目のエベレスト登攀になった。一行はアイス・フォールを超え、巨大なクレバスに道をさえぎられたが、ジャン・ジャック・アスパーザイルをつかってクレバスの反対側に渡ることに成功し、そこに橋をかけてウェスタン・クウムへの道を開いた。最終的にランデールとテンジンがそれまでの最高高度8,611メートルに達し、頂上は目前だったが天候に恵まれず撤退。この年、ソ連が秘密裏に遠征隊を送り込んで壊滅したといううわさが西側メディアで流れたが、詳細は明らかにならなかった。

1953年、酸素装備の改良、登攀技術の研鑽などによって満を持したイギリス隊が送り込まれる。この機会を逃せば次の派遣は数年後になっており、翌年以降各国が続々と隊を送り込む予定だったため、イギリスは強い意気込みで1953年隊を送り出した。隊長はベテランのシプトンにいったん決まったものの、第60ライフル連隊のジョン・ハント(John Hunt)大佐が推挙されてもめにもめた。その後、突如シプトンが隊長という決定が覆され、ハントが隊長に代わった。このときのトラブルに心を痛めたシプトンは登山界の表舞台を去ることになる。遠征隊は順調にキャンプを前進させていき、2つの頂上アタックチームを送り出した。まず最初のチャールズ・エバンスとトム・ボーディロンのチームが5月26日にアタック、南峰(8,749メートル)を制したが酸素不足で撤退した。

後に続いたエドモンド・ヒラリーとシェルパのテンジン・ノルゲイの第2チームが5月29日午前11時30分に世界で初めての登頂に成功、エリザベス2世の戴冠と時期を同じくする偉業にイギリスは沸き、マロリー以来の宿願を果たした。

1960年5月25日、中国隊がセカンドステップを超えて北東側からの初登頂に成功。同隊が夜間登頂したため、頂上での写真を撮っていなかったことなどから、この登頂は長く西側諸国から疑いの目で見られていたが、現在ではほぼ認定されている(下記リスト参照)。

1963年5月22日、アメリカ隊が登頂に成功。初縦走も成し遂げる。

1965年5月20日、21名からなるインド隊(M・コーリ隊長)が登頂に成功、シェルパのナワン・ゴンブは史上初めて2度エベレストの頂上に立った人物となった(1度目は1963年のアメリカ隊と成功)。

ネパール政府により、外国人による登山が1969年まで全面禁止となる。

1970年5月11日松浦輝夫植村直己が日本人として初めて登頂に成功した。

1975年5月16日田部井淳子が女性として世界で初めて登頂に成功した。

1973年、イタリア隊のリナルド・カレル、ミルコ・ミヌッツォら5人が登頂しイタリア人として初のエベレスト登頂。実業家グイド・モンジーノが組織したこの隊は、イタリア人隊員は隊長も含め64人、雇用したシェルパも100人にのぼり、ジェット機とヘリコプターで搬入した物資は50トンにおよぶなど単独の登山隊としては最大級の規模であった。

1996年5月10日、8名が死亡する大量遭難死が発生した(エヴェレスト大量遭難参照)。同シーズンにさらに4名の遭難があり、1シーズンで12名の死者が出た。

1999年5月1日、アメリカのマロリー&アーヴィン捜索隊が標高8,160メートル付近でマロリーの遺体を発見した。マロリーたちが持参していたカメラ、ヴェスト・ポケット・コダックが発見されればエベレスト登山史上最大の謎が解けることになるが、いまだ発見にいたっていない。しかし、登頂に成功した暁に置いてくるつもりだった彼の妻の写真が遺留品になかったことから、ジョージ・マロリーが登頂に成功していたのではないかという説を唱える人も多い。なお、マロリー&アーヴィン捜索隊は2001年にも捜索活動を行い、前回発見できなかったアーヴィンの遺体とカメラを捜索したが、このときの捜索では何も発見できなかった。

2012年5月19日、異常高温によりルート工作が難航したため待機させられていた大量の登山隊が開通時に一斉に押し寄せ、1日で234人が登頂し大渋滞が発生。これを遠因として登頂後に高山病を発症した4人が死亡した。この年はいくつかの登山ツアーは山頂までの登頂を諦めている。

2014年4月18日、ネパール側ルート上のクーンブ氷河中にある「ポップコーン・フィールド」付近を、西稜の肩の懸垂氷河の崩落を原因とした大雪崩が直撃。ルート工作中のシェルパが多数巻き込まれ16人が死亡(死者はすべてネパール人ガイド)。この事故死をきっかけにシェルパ側から事故時の補償を拡充する声が高まり、登山のサポートを事実上ボイコット。334人が登頂を断念している。また、ネパール観光局は、シェルパの保険金を2014年9月以降、引き上げる措置を講じている[14]

2015年4月25日、同日発生したネパール地震の影響で大規模な雪崩がベースキャンプを直撃し、日本人1人を含む18人が死亡。エベレスト史上最悪の遭難事故となった[15]。ネパール側では余震によりルート修復が困難になり[16]、キャンプ1とキャンプ2に100人以上が取り残されたがヘリコプターで救助された[17]。一方、この地震を受けて、中国政府はチベット側の登山中止を宣言。この影響で、この年は1974年以来41年ぶりに登頂者が1人も出なかった。

おもな登頂者のリスト[編集]

主な登頂の記録[編集]

最年少、最高齢
複数回登頂
障害者による登頂

登山[編集]

登山者数[編集]

2010年までの年ごとの登頂者数の推移

登頂者数は2010年時点で3,142人(のべ5,104人)で[28]、その中の142人(のべ173人)が無酸素で登頂している[29]。2012年には登頂者数が3,842人(うち女性は219人)となり、1週間にベースキャンプから山頂まで2往復する女性も現れた[30]。商業登山や公募隊が盛んになり、登山者数はますます増加する傾向にある。登頂のためのノウハウが蓄積され、死亡率は減少傾向に、登頂成功率は上昇傾向にある。登山者の増加により、渋滞が問題になっており、渋滞によりヒラリー・ステップで2時間半 - 4時間待つこともあり、ヒラリー・ステップを簡単に素早く登れるように2013年現在、固定ロープだけでなくはしごも設置することが検討されている[31]。2018年には登頂者は807人と過去最高となった[32]。2019年5月22日には200人以上が頂上を目指し[33]、頂上から登山者が数珠つなぎになって渋滞した[32]。渋滞に12時間も巻き込まれて体調を崩して死亡する登山者も出てきている[32][33]

入山料と費用[編集]

エベレストに入山するには入山料を支払わないと登れないシステムになっている。2015年時点の入山料は、ネパール側では春の通常ルート(南東稜)で1人あたり1万1,000ドル[34]。ほかにリエゾン・オフィサーや医療サポート、ロープ設置などの名目で1,500ドルほどかかる[35]。春以外の季節、または通常ルート以外のルートでは、入山料はこれよりも安くなる[36]。2014年の価格改定時に1人で登る場合の入山料が値下げされたが、団体割引がなくなっている。チベット側の入山料は1人あたり7,000ドルである(2015年時点)[35]

登山ツアー(商業公募隊)が多数あり、2015年現在、ネパールからの通常ルートの場合、入山料などのすべての諸経費込みで3万5,000 - 8万5,000ドル程度となっている[34]。ネパールからの通常ルートは、シーズンごとに各隊のシェルパが固定ロープ、はしごを設置し、それに沿って登山する形となり、氷壁などを登る必要などはない。チベット側からの登山は難易度が相対的に高くなっているが[37]、こちらも公募隊が多数組まれている[34]。商業公募隊には品質のばらつきがあり、死亡率の高いものも存在する。最近の日本人による登頂のほとんどが商業公募隊かテレビ局の撮影をともなうものになっている[38]

商業登山への懸念と批判[編集]

エドモンド・ヒラリーは登山ツアーを「商業活動」と批判している[39]田部井淳子も、現地ネパール人の助けがあって登頂に成功したが、今では助けを得られるかはお金次第であると述べ、登山の過度の商業化を危惧した[39]。また登山者数の増加にともない、ネパール側、チベット側の2つのノーマルルートで渋滞が発生し、それが誘引となって遭難する案件も出てきている。2005年にはチベット側だけで35グループのエベレスト登山ガイド隊が活動しており、一連の登山ビジネスの活発化が山に対する敬意や畏怖の念を薄れさせると懸念する声も上がっている[39]

遭難[編集]

登山ルートには、随所に120体もの遭難者の遺体が放置され、凍結ないしは乾燥によりミイラ化している。遺体の中には登山ルートの目印となっているものもある。遭難死の7割は下山時に発生している。

ネパール側のエベレスト以外(K2など)の山も含めたヒマラヤ山脈での標高8,500メートル以上の山の登山での死亡率は以下の通り[40]

時期 登山者数
(シェルパ・ガイド除く)
登山者
死亡者数
登山者
死亡率
シェルパ・ガイド数 シェルパ・ガイド
死亡者数
シェルパ・ガイド
死亡率
全登山者数 全死亡者数 全死亡率
1950年〜1989年
標高8500m以上の山
3,451 75 2.17% 2,705 47 1.74% 6,156 122 1.98%
1990年〜2006年
標高8500m以上の山
6,401 92 1.44% 4,379 30 0.69% 10,780 122 1.13%
1990年〜2006年
エベレスト通常ルート[注 3]
4,549 64 1.41% 3,380 22 0.65% 7,929 86 1.08%

登山ツアーの1つであるHimalayan Experienceの客の登頂成功率は、悪天候とシェルパの死[41]により誰も登らなかった2012年を除くと、客を毎年20名前後取るようになった2003年 - 2011年で60 - 82パーセント[42](この数字はガイド・シェルパを含まず)である。

日本人専用の登山ツアーとしてアドベンチャーガイズがあり、2004年 - 2013年にガイドを除いて23名参加し、17名登頂成功、2名[38]死亡(死亡事例はいずれもガイド自身がエベレスト登頂未経験のケースに発生)。

制限[編集]

年齢
ネパール側の登山ルートは成人(16歳以上)のみ登山ができる年齢制限がかかっており、2010年9月より中国側登山ルートによる登山が18歳から60歳に年齢制限がかかる。制限導入の背景は、従来より若年層による登山にはより大きな危険がともなうと批判が出ていたこと、最年少記録更新のヒートアップが予想されたことなどがある[43]
ただし中国側の規制は強制ではなく[44]、2014年には13歳のマラバト・プルナが中国側から女性最年少登頂を果たしている。
最高齢登頂記録に関して、2013年に日本の三浦雄一郎が80歳で登頂して記録を更新した一方、2017年に記録更新を目指した85歳のネパール人の男性登山家がベースキャンプで心臓発作により死亡している[45]。この事例を受け、ネパール登山協会のシェルパ会長は、個人的な意見と断ったうえで「今こそ規制が必要」とコメントしている[46]
人数
2017年12月28日、ネパールは単独登山者の入山を法律で禁止した[47][48]

ゴミ問題[編集]

登山ルートには度重なる登山のゴミが廃棄されており、生態系に与える影響や水質汚染が懸念されている[49]。ネパール政府は、自分が出したゴミとは別に1人あたり8キロのゴミを持ち帰るよう義務づける、新しい規制を2014年から導入した[50]。ゴミを回収することを目的とした登山が行われることもある。

2017年には、ネパール側で25トン近いゴミと15トンの屎尿が持ち帰られたが、デポジット金没収のペナルティを受容して山にゴミを残す登山者も多く、ゴミの量は増え続けている[51]

トレッキング[編集]

上記のようにエベレストの山頂へと登ることは熟練の登山家でも危険をともなうが、一方で南麓であるネパール側の6,000メートル以下のエベレストの山腹まではそれほどの難所もなく、高山病対策さえあれば一般の観光客でもトレッキングを楽しむことは可能であり、世界中から多くの観光客が訪れる。日本でもいくつかの旅行社がエベレスト・トレッキングツアーを催行しており、参加者も多い。また単独で、または登山ガイドをつけての個人トレッキングも可能である。

トレッキングを行う場合、まずネパールの首都カトマンズから飛行機でルクラ村へと向かう(テンジン・ヒラリー空港も参照)。ここから北のエベレスト山腹へと向かう道はエベレスト街道と呼ばれ、多くの登山客が行きかう。ルクラ村の手前にある路線バスの終点ジリ村から徒歩で数日かけルクラまで歩くことも出来る。

ルクラから北へ向かうと、この地方でもっとも大きく登山基地となっているナムチェ村を通り、やがて西のゴーキョ・ピークと東のカラ・パタールへ向かう2つの登山道が分岐する。ゴーキョ・ピークは標高5,483メートル、カラ・パタールは5,545メートルの地点にあり、どちらも眼前にエベレストを望むことができる。

周辺[編集]

脚注[編集]

[ヘルプ]

注釈[編集]

  1. ^ チベット文字による表記。環境によっては「ཇོ་མོ་ག」と字化けして表示される。
  2. ^ 1996年にもハンス・カマランダーが山頂からスキー滑降に成功したが、所々でスキーを脱いで下山した。三浦雄一郎は1970年に7900mからスキー滑降し、「The Man Who Skied Down Everest」として映画化されたことで有名。
  3. ^ 北側、南側の2つの通常ルートの合計。

出典[編集]

  1. ^ GPS-Messung von 1999
  2. ^ 薬師義美 2006, p. 41
  3. ^ 薬師義美 2006, p. 71
  4. ^ 薬師義美 2006, p. 106
  5. ^ 薬師義美 2006, pp. 107-111
  6. ^ 薬師義美 2006, pp. 111-112
  7. ^ 薬師義美 2006, p. 113
  8. ^ 薬師義美 2006, p. 115
  9. ^ ウェイド・デイヴィス 2015a, p. 73
  10. ^ ウェイド・デイヴィス 2015a, p. 74
  11. ^ ピーター・スティール 2000, p. 63
  12. ^ ピーター・スティール 2000, p. 101
  13. ^ ピーター・スティール 2000, p. 217
  14. ^ “ネパール人シェルパへの保険金引き上げ、エベレスト雪崩事故受け”. ロイター (ロイター通信社). (2014年8月11日). http://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPKBN0GB0DK20140811 2014年8月12日閲覧。 
  15. ^ 大地震によるエベレスト雪崩、生存者が恐怖の体験語る
  16. ^ エベレスト商業登山、考え直すとき ナショナルジオグラフィック 2015年5月18日
  17. ^ ネパール大地震、ヘリ不足で村々が孤立 ナショナルジオグラフィック 2015年5月13日
  18. ^ エリック・R・サイモンスン ラリー・A・ジョンソン ヨッヘン・ヘムレブ 1999, pp. 316-318
  19. ^ 田部井淳子編『エヴェレストの女たち』(山と溪谷社,1998年)ISBN 978-4635171137
  20. ^ 女性最年少でエベレスト登頂の13歳少女、体験語るAFP BB NEWS 2014年6月3日
  21. ^ “73歳日本人女性がエベレスト登頂、最高齢女性の記録更新”. ロイター. (2012年5月21日). http://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPTYE84K02C20120521 
  22. ^ ツイッターやネットの書き込みを読んで、三浦雄一郎の下山時のヘリコプター使用について様々な意見がある... - Yuichiro MIURA Everest 2013
  23. ^ “エヴェレストを1週間に2回登頂 ネパール人ガイド、最多24回目”. BBC News. (2019年5月23日). http://news.livedoor.com/article/detail/16502919/ 2019年5月25日閲覧。 
  24. ^ 女性で初、エベレスト登頂1シーズン2回成功 ギネス記録に認定 2013年02月25日 AFPBB News
  25. ^ Featured Everest Expedition: Team Everest '03 EverestNews.com
  26. ^ “Armless Calgary man Sudarshan Gautam reaches dream of summitting Mount Everest”. Calgary Sun. (2013年5月20日). http://www.calgarysun.com/2013/05/20/armless-calgary-man-sudarshan-gautam-reaches-dream-of-summitting-mount-everest 2015年12月24日閲覧。 
  27. ^ “Canadian double-amputee summits Mount Everest”. CBC News. (2013年5月30日). http://www.cbc.ca/radio/asithappens/canadian-double-amputee-summits-mount-everest-1.1322725 2015年12月24日閲覧。 
  28. ^ Full list of all ascents of Everest up to and including 2010 (in pdf format)”. 8000ers.com (2011年9月24日). 2012年6月27日閲覧。
  29. ^ Ascents - Everest (without supplementary oxygen) 8000mers.com
  30. ^ CNN.co.jp : 1週間に2回エベレスト登頂 ネパール人女性がギネス認定
  31. ^ 「渋滞難所 はしごでスイスイ エベレストで設置計画に反発も」:イザ!”. SANKEI DIGITAL INC.. 2013年12月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年12月31日閲覧。
  32. ^ a b c 頂上にこの行列… エベレストでさらに4人死亡、混み合う「死のゾーン」 AFP 2019年5月24日 22:41 発信地:カトマンズ/ネパール
  33. ^ a b エベレスト登頂成功の米国人死亡、頂上で写真撮影中倒れる〔AFP=時事〕(2019/05/24-11:45)
  34. ^ a b c Everest 2015: The Cost to Climb Everest alanarnette.com Dec 15 2014
  35. ^ a b How much does it cost to climb Mount Everest? GRINDTV March 31, 2015
  36. ^ New Everest Permit Fee System alanarnette.com Feb 14 2014 (記事中央の図表を拡大すると値段の詳細)
  37. ^ 日刊勝ち組スポーツ エベレストっておいくら?
  38. ^ a b 日本人登頂者一覧
  39. ^ a b c エベレストツアーが人気 登山の商業化危ぶむ声も 共同通信 2005年05月02日
  40. ^ The Himalaya by the Numbers
  41. ^ Everest 2012 Newsletter #17 - Himalayan Experience
  42. ^ HIMALAYAN EXPERIENCE STATISTICS
  43. ^ “最年少更新は不可能に=エベレスト登頂、中国も年齢制限” ((日本語)). 時事ドットコム (時事通信). (2010年6月22日). http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2010062200523 2010年6月22日閲覧。 
  44. ^ Is the risk worth the glory? Child mountain climbers & child exploitation Women News Network 2014年7月23日
  45. ^ 「最高齢エベレスト登頂」奪還狙った85歳死亡 読売新聞(2017年5月7日)2017年5月7日閲覧
  46. ^ エベレスト登山に年齢制限は必要か 85歳登山家の死亡受け CNN(2017年5月9日)2017年5月9日閲覧
  47. ^ Nepal bans solo climbers from Mount Everest under new rules(BBC)
  48. ^ エベレストの単独登山を禁止、安全対策で規制改定 ネパール(AFP通信)
  49. ^ エベレスト登山者はごみ持ち帰りを ネパール、8キロ義務付け 日経新聞 2014年3月4日
  50. ^ エベレスト登山者にごみ収集を義務化へ、ネパール AFP 2014年3月4日
  51. ^ エベレストで登山者が捨てるごみ増加、世界最高峰のごみ溜めに”. AFP (2018年6月25日). 2018年6月28日閲覧。
  52. ^ エベレストに「世界最高峰の派出所」設置―中国”. Record China (2008年11月25日). 2018年3月20日閲覧。

参考文献[編集]

  • ウェイド・デイヴィス; 秋元由記訳 『沈黙の山嶺 第一次世界大戦とマロリーのエヴェレスト 上』 白水社、2015a。ISBN 978-4560084335 
  • ウェイド・デイヴィス; 秋元由記訳 『沈黙の山嶺 第一次世界大戦とマロリーのエヴェレスト 下』 白水社、2015b。ISBN 978-4560084342 
  • ピーター・スティール; 倉知敦訳 『エリック・シプトン 山岳探検家波乱の生涯』 山と渓谷社、2000年。ISBN 978-4635340144 
  • エリック・R・サイモンスン ラリー・A・ジョンソン ヨッヘン・ヘムレブ; 海津正彦 高津幸枝訳 『そして謎は残った 伝説の登山家マロリー発見記』 文芸春秋社、1999年。ISBN 978-4163559001 
  • 薬師義美 『大ヒマラヤ探検史』 白水社、2006年。ISBN 978-4560030462 

関連書籍[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

画像外部リンク
360度 パノラマビュー