ジェームズ1世 (イングランド王)
ジェームズ6世 / ジェームズ1世 James VI / James I | |
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スコットランド王 / イングランド王 | |
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在位 |
1567年7月24日 - 1625年3月27日(スコットランド王) 1603年7月24日 - 1625年3月27日(イングランド王) |
戴冠式 |
1567年 7月29日(スコットランド王) 1603年7月25日(イングランド王) |
別号 |
アイルランド王 グレートブリテン王(非公式) |
全名 | チャールズ・ジェームズ・ステュアート |
出生 |
1566年6月19日![]() |
死去 |
1625年3月27日![]() |
埋葬 |
1625年5月7日![]() |
王太子 | チャールズ1世 |
配偶者 | アン・オブ・デンマーク |
子女 |
ヘンリー・フレデリック エリザベス チャールズ1世 ロバート |
家名 | ステュアート家 |
王朝 | ステュアート朝 |
父親 | ダーンリー卿ヘンリー・ステュアート |
母親 | スコットランド女王メアリー1世 |
ジェームズ6世(James VI)およびジェームズ1世(James I)、チャールズ・ジェームズ・ステュアート(Charles James Stuart, 1566年6月19日 - 1625年3月27日)は、スコットランド、イングランド、アイルランドの王。スコットランド王としてはジェームズ6世(在位:1567年7月29日 - 1625年3月27日)であり、イングランド王・アイルランド王としてはジェームズ1世(在位:1603年7月25日 - 1625年3月27日)である。非公式にはグレートブリテン王の称号も用いた。スコットランド女王メアリーと2番目の夫であるダーンリー卿ヘンリー・ステュアートの一人息子である。
イングランドとスコットランドの王位を初めて一身に兼ねた君主であり、また各国との協調政策に尽力し「平和王」とも言われている。この後ヨーロッパで広がる「王権神授説」の基礎を作った。ただ、国王と王妃の出費から財政的には逼迫させ、議会と最終的には対立してしまう[1]。
出生と血筋[編集]
チャールズ・ジェームズは1566年6月19日、スコットランド女王メアリーの第1子としてエディンバラ城で生まれた。名付け親はイングランド女王エリザベス1世である。メアリー女王の最初の男子であり、誕生後間もなくロスシー公に叙され、正式にスコットランド王位継承者とされた。女系継承ではあるが、ジェームズの父親でメアリーの2番目の夫であるオールバニ公ヘンリー・ステュアート(ダーンリー卿)もまたステュアート家の一族であり、ジェームズ以降の家系もそれまでと区別なくステュアート家と呼ばれる。
ダーンリー卿の家系はステュアート・オブ・ダーンリー家と呼ばれ、男系ではステュアート朝以前に後の王家と分かれており、ロバート2世の祖父である第5代王室執事長ジェームズ・ステュアートの弟の子孫であった。ダーンリー卿は生得の権利として有力な王位継承権を持っていたが、これは父方の曾祖母エリザベス・ハミルトン(Elizabeth Hamilton)がジェームズ2世の外孫であったことによる。
ジェームズはまた有力なイングランド王位継承権者でもあったが、これは祖父ジェームズ5世がヘンリー8世の姉マーガレット・テューダーの息子であったことによる。さらに、マーガレット・テューダーはダーンリー卿の母方の祖母でもあった。
生涯[編集]
スコットランド時代[編集]

1567年、ジェームズが1歳の誕生日を迎える以前に、父ダーンリー卿は不審な死を遂げ、母メアリーとは引き離された。同年7月26日にメアリーは廃位され、ジェームズは1歳1か月でスコットランド王位に就いた。メアリーは1568年にイングランドへ亡命し、以後1587年に処刑されるまでジェームズ6世と会うことはなかった。即位後、メアリー側の勢力とジェームズを擁した勢力との間で、内戦が5年ほどの間続いた(メアリアン内戦)。この内戦は、1573年にイングランドが介入することによって終息した。
ジェームズ6世の即位後しばらくの間は摂政が置かれ、17歳になるまで実質的な政務を執ることはなかった。最初の摂政はメアリー女王の庶出の兄で王の母方の伯父に当たるマリ伯ジェームズ・ステュアートであったが、1570年にメアリーの支持者によって暗殺された。次いで、ダーンリー卿の父で王の祖父に当たるレノックス伯マシュー・ステュアートが摂政となったが、この祖父も1571年に国内の紛争で殺害された。マリ伯の母方のおじで3人目の摂政となったマー伯ジョン・アースキンも1572年に死去し、王の祖母マーガレット・ダグラスの従弟に当たるモートン伯ジェームズ・ダグラスが最後に摂政となった。
1570年にマリ伯ジェームズ・スチュアートが暗殺された後頃から、ジェームズの家庭教師としてジョージ・ブキャナンがついている。ブキャナンは政治に携わり、1579年頃までジェームズのもとにいたといわれるブキャナンは、カトリックに基づく王権神授説でなく、プロテスタントに基づく制限された国王論を教えようとしたとも言われている。
1579年、ジェームズが成人の統治者となったことを祝う式典が行われた。この時以降、主な居所をそれまでのスターリング城からエディンバラ城に移すようになった。
13歳のジェームズ6世はフランス帰りのオウビーニュイ卿エズメ・ステュアート(父ヘンリーの父方の従弟に当たり、のちにレノックス公に叙爵)に魅了され、彼を寵愛した(ジェームズは男色家=ホモセクシュアルで知られている)。邪魔になったモートン伯は、ダーンリー卿殺害に関与したとして1581年1月に処刑された。
1582年、ガウリ伯ウィリアム・リヴァンの計略により、ジェームズ6世はリヴァン城に軟禁された(リヴァンの襲撃)。ガウリ伯はプロテスタント貴族で、ジェームズに対するフランスやカトリックの影響、また母メアリーのイングランドからの帰還を妨げようとしたらしい。翌年リヴァン城からの脱走に成功したジェームズ6世は、1584年にガウリ伯を処刑し、直接統治を行うこととした。
親政に乗り出したジェームズ6世は、当面の懸案であった宗教問題に取り組むことにした。当時のスコットランドの宗教界は長老主義の影響が強く、彼らは「聖職者の任命は国王ではなく、長老会議によるべき」と主張していた。ジェームズ6世は、1584年5月に「暗黒法」(ブラック・アクト)を発布し、国王が最高権威者であり、司教制度を謳い、国王や議会に反対する説教を禁止した。これに対する信徒の反発は強く、1592年には「黄金法」(ゴールデン・アクト)により「集会」を認めることとした。さらに、1598年には「司教議員」を認め、教会(カーク)の推す3人の司教にスコットランド議会議員同様の立法活動を許すこととした。
1586年、ジェームズはイングランドとベリック条約を結ぶ。
1587年、母メアリーがイングランドで処刑されるが、ジェームズは1588年にエリザベス女王に忠誠を誓った(後継者として有力でもあったため)。
1589年、ジェームズ6世はデンマーク=ノルウェーの王フレデリク2世の娘アンナと結婚した。フレデリク2世はティコ・ブラーエを支援した国王で、当時は亡くなっていたが、ジェームズはデンマークでブラーエと会っている。翌年、国王の乗船が嵐に巻き込まれて沈没寸前になる出来事が起きたが、これに関して国王に反対する勢力が雇った黒魔術師による国王暗殺計画があったとして、70名の女性が逮捕される魔女狩り騒動が起きている (North Berwick witch trials) 。国王自ら参加し、後に自身の著書『悪魔学(デモノロジー)』の冒頭にこの事件を記述している。この裁判は、デンマークで行われていたものをジェームズが初めてスコットランドに持って来て行った裁判で、魔女に「国王はサタンが相手する世界最大の強敵」「かの人は神の人」と証言させることで、国王の神性を高めるための目的もあったという[2]。また『悪魔学』を通して、この裁判からシェイクスピアが影響を受けて『マクベス』が書かれたともいわれる。
ジェームズ6世はみずから『自由なる君主国の真の法』(1598年)という論文を書いて王権神授説を唱えた。ここでいう「自由なる君主国」とは、王は議会からの何の助言や承認も必要なく、自由に法律や勅令を制定することができるという意味である[3]。さらに1599年には『Basilikon Doron(古代ギリシア語で「王からの贈り物」の意味)』を著述し、国王から息子ヘンリーに向けた手紙という形式で君主論を論じている。国王は政治の主題とするテーマに精通しているべきや、世界史・数学・軍事についての教養の必要性、またスピーチは分かりやすい表現でなど、良き君主になるための自身の経験や教訓によって書かれている。この本はその後、ヘンリーの弟チャールズ1世にも読ませている。
また1596年、娘のエリザベスが生まれるが、この頃にはエリザベス女王後のイングランド王位継承を意識しており、敬意をこめて女王の名を取って娘に付けている(さらにその娘にもエリザベスの名が引き継がれ、この孫娘はデカルトの教え子になっている)。
イングランド王位継承[編集]


1603年3月に入るとイングランド女王エリザベス1世が重体となり、イングランドの国王秘書長官ロバート・セシルは女王崩御に備え、スコットランド王ジェームズ6世に、彼がイングランド王に即位する旨の布告の原案を送り届けて、王位継承準備を整えた(エリザベスがジェームズ6世への王位継承を認めていたかどうかは不明)。3月24日にエリザベスは崩御し、ジェームズ6世が7月25日に戴冠、同君連合でイングランド王ジェームズ1世となった[4]。
これがイングランドにおけるステュアート朝の幕開けとなり、以後イングランドとスコットランドは、1707年に合同してグレートブリテン王国となるまで、共通の王と異なる政府・議会を持つ同君連合体制をとることとなる。イギリス史ではこれを王冠連合と呼ぶ。イングランドの宮廷生活に満足したジェームズ1世は、その後スコットランドには1度しか帰ることがなかった。
議会に対して[編集]
ジェームズ1世はエリザベス体制を継続するという暗黙の条件でやってきていたため、セシルやフランシス・ベーコンを助言者として重用し続けた[5]。ただしこの時、セシルなどジェームズによって重用されたり援助した者の多くは貴族院での仕官だったため、庶民院でジェームズ側の者が少なくなった。当時、貴族院と庶民院はそれぞれ、その院内の者しか発言権がなかったため、後々になってジェームズは議会に対して不利になっていく[1]。
ただ、ジェームズは議会を無視して王権を振るった印象が強いが、イングランド王位継承直後は「議会との協調」を発言し、エリザベス女王に比べても議会を開催した回数は少なくなく、8期会(36か月)行っている[1]。
宗教政策[編集]
1604年、ジェームズ1世はイングランドの国教会や清教徒など宗教界の代表者たちを招いて会議を行った。この中でジェームズは、カトリックと清教徒の両極を排除することを宣言したが、これによりカトリックと清教徒の両方から反感を買うことになった。1605年にはガイ・フォークスらカトリック教徒による、国王・重臣らをねらった爆殺未遂事件(火薬陰謀事件)が起こった。なお、1611年に刊行された欽定訳聖書は、ジェームズ1世の命により国教会の典礼で用いるための標準訳として翻訳されたものである(この欽定訳聖書を作るための組織メンバーにラーンスロット・アンドリューズなどがおり、フランシス・ベーコンに代表される科学と宗教の両立的発展があった知的なメンバーの集いにもなった[6])。

連合統一政策[編集]
ジェームズ1世はイングランドとスコットランドの統一を熱望したが、両政府は強硬に反対し続けた(そのためスコットランドではカルヴァン派の長老派、イングランドでは国教会とそれぞれ違う宗教を認めた)。一方でジェームズ1世は、統一に向けて自分が影響を与えられることは行った。第一に「グレートブリテン王」(King of Great Britain)と自称し、第二に新しい硬貨「ユナイト」(the Unite)を発行してイングランドとスコットランドの両国に通用させた。最も重要なことは、イングランドのセント・ジョージ・クロスとスコットランドのセント・アンドリュー・クロスを重ね合せたユニオン・フラッグを1606年4月12日に制定したことである。新しい旗の意匠は他にも5種類ほど提案されたが、他の案は重ね合せではなく組合わせたものであったり、イングランド旗部分が大きいものであったりしたため、ジェームズ1世は「統一を象徴しない」として却下した。
また、イングランド国王就任時からアイルランドは植民地となっており、植民地アイルランドの統一政策も行い、特にフランシス・ベーコンは植民政策に対しての著作を残している[6]。
外交政策[編集]
1606年には、北アメリカ海岸に植民地を建設する目的で、ジョイント・ストック・カンパニーのバージニア会社に勅許を与え、本国のバージニア委員会を通じて経営を行った。ジェームズタウンの建設を進め、また1620年のピューリタンによるメイフラワー号も有名である。
エリザベス1世時代に敵対していたスペインとは和解した。だが、その一方で私掠船を禁止したり、「反スペイン」で関係を強めていたオスマン帝国に対してはキリスト教徒としての観点から敵意を抱いて断交を決め、重臣や東方貿易に従事する商人たちからの猛反対を受けた。最終的にジェームス1世が妥協して、従来国家が負担していた大使館などの経費を全て商人たちに負担させることを条件に、オスマン帝国との国交は維持することになった(この時期の貿易は、イタリア・ヴェネツィア商人を通じて、オスマン帝国、さらに東南アジアとのスパイス貿易がメインだった[7])。
ただ、東方貿易と同じ東南アジアに向かう東インド航路の開拓を進めた(1600年、エリザベス女王時代に東インド会社が設立されたが、当時はスペインと和平交渉は成立していなかった)。1613年にはジャワ島のバンテンに商館を持っていて、日本にいる三浦按針から手紙を貰い、東インド会社第二船団に乗っていたジョン・セーリスが日本に行き、徳川家康・秀忠親子と交渉して、平戸にイギリス商館を築いている。また、秀忠からは鎧などを贈られ、これは現在もロンドン塔に現存する。ジェームズはこれにより日本に興味を持ち、セーリスの航海記を5回も読むほどだったらしい[8]。日本の工芸品などで初のイングラド国内オークションなどが行われるが、日本は基本的に東南アジアのスパイス貿易のサブ(東南アジアのスペイン・ポルトガル船襲撃や布製品の売り付けなど[9])だったため、1623年のアンボン事件以後、オランダとの関係悪化で東南アジアからインド貿易にシフトしていく(日本のイギリス商館も1623年に廃止された)。
インド周辺のコーヒー貿易は、1616年末の東インド会社第三船団の際には計画されているが、1619年に巧みな外交によってモカ港の入港の許可に成功している。これによりコーヒーの大量買い付けが可能になっている[7]。
1613年、娘エリザベスをプファルツ選帝侯フリードリヒ5世と政略結婚させた。国教会とプロテスタントの連携を目指したもので、「テムズ川とライン川の合流」とまで言われる。
財政の逼迫と議会との関係悪化[編集]
ジェームス1世は、スコットランド王としてもイングランド王としても弱体な権力基盤の上に君臨していたため、自己の味方を増やそうと有力貴族たちに気前良く恩賜を授け、多額な金品を支出した。さらに王妃アンの浪費(後述)によって国家財政は逼迫してしまうことになった。このため、国王大権をもって議会に諮らずに、関税を大商人たちに請け負わせる契約(「大請負」)を締結して、議会との対立を深めた。1610年、ソールズベリー伯ロバート・セシルが財政再建策として大契約を議会に提出した。議会は1度は同意したが、議会側は国王が絶対王政に走るのではないかとの疑いから、廃案となった。
危機的な王庫の困窮を少しでも緩和するため、1611年にはアイルランド北部アルスター地方の植民者を守り、アイルランド人の反乱に備える軍隊の費用を捻出するため、購入が可能な新位階としてイングランド準男爵位を創設した。1619年にはアイルランドでも販売を開始した(ジェームズ1世の崩御後にはスコットランドでも準男爵の販売が開始される)[10]。
絶対王政時代[編集]
1614年からは国王の統一政策への反対の声が強くなったり、財政の逼迫にもかかわらず議会から十分な課税ができないことなど、議会を自らの首を絞める存在として強く意識するようになり、議会を7年ほど開催しなくなる[1]。
1618年に勃発した三十年戦争において、プファルツ選帝侯フリードリヒ5世はその当事者となったが、1621年には完全に神聖ローマ皇帝フェルディナント2世側に押され、オランダ共和国に亡命する事態になっていた。そのためジェームズは、娘婿を助けようと7年ぶりに議会を開き、資金を集めようとした[1]。このとき中心的に動いた人物としてフランシス・ベーコンがおり、またそれが故にベーコンは失脚の憂き目に会う。
1622年にはホワイトホール宮殿の拡張を実施し、イニゴ・ジョーンズの設計によるバンケティング・ハウスを完成させた。
1625年3月27日、ジェームズはシーアボールズ宮殿で崩御した。
ジェームズ1世の家族[編集]
子女[編集]
デンマーク=ノルウェー王フレゼリク2世の王女アンとの間に3男4女があるが、成人したのは3人であり、さらに子孫を残したのは2人である。
- ヘンリー・フレデリック(1594年 - 1612年) - 王太子(ロスシー公、コーンウォール公、プリンス・オブ・ウェールズ)のまま早世
- エリザベス(1596年 - 1662年) - プファルツ選帝侯フリードリヒ5世妃
- マーガレット(1598年 - 1600年)
- チャールズ(1600年 - 1649年) - イングランド王およびスコットランド王チャールズ1世
- ロバート(1602年)
- メアリー(1605年 - 1607年)
- ソフィア(1607年)
空っぽの頭と言われた王妃[編集]
先代のエリザベス1世は倹約家であったことに加えて、本人以外に「王族」を持たなかったために宮廷経費が最低限であったのに対して、ジェームズ1世には既に王妃アンの他に7人の子供たちがおり、宮廷経費の増大は避けられなかった。
特に王妃アンは、金髪が美しい美女であったが、お祭り好きの浪費家で知られた。その浪費癖は既にスコットランド時代から知られており、元々裕福とは言えないスコットランド王室の財政を脅かすほどだった。それはイングランドに移ってからも変わることなく、パーティに舞踏会、そしてイングランド南西部のバースへの大旅行など、その浪費ぶりは凄まじいものがあった。そのため、1619年に王妃が他界すると莫大な負債が残され、ジェームズ1世は悩まされることになった。彼女については「空っぽの頭」(Empty Headed)と言う者までいた。
宮廷経費の増大は国家財政をさらに逼迫させて、清教徒革命に至る国王と議会の対立の最大の原因となる。
ただし最近の研究では、ジェームズの時代はシェイクスピアなど文化的発展の特色がみられた時代で、そのような文化的サロンなどを活発に開き、文化に貢献したと再評価もされている。
ハノーヴァー朝につながる娘[編集]
長女エリザベスは、1613年にプファルツ選帝侯フリードリヒ5世と結婚した。陽気で美しく慈悲の心を持っていた彼女は、イングランドでも非常に人気が高かった。嫁ぎ先のプファルツでも領民たちから「慈愛の王妃」と呼ばれ慕われるほどであった。しかし、ボヘミア・ファルツ戦争(ベーメン・プファルツ戦争)で夫が皇帝フェルディナント2世に敗れると、全てを失ってオランダ共和国への亡命を余儀なくされた。のち、1661年にイングランドへ帰り、翌1662年ロンドンで死去した。
ジェームズは1621年に議会を開き、娘夫婦を援助する取り組みを行うが、議会の強い反対によって実現しなかった。後にはスペインとの関係を深めて対処しようとしている[1]。
エリザベスは夫との間には13人の子を儲けたが、うち五女ゾフィーはハノーファー選帝侯エルンスト・アウグストに嫁いだ。ゾフィー以外の兄姉およびその子孫はゾフィ―よりも早世またはカトリック教徒となったため、ゾフィ―が唯一の王位継承者となった。しかし、ゾフィーがステュアート朝最後の君主アン女王に先立って逝去したため、長男がジョージ1世(ハノーヴァー朝の祖)として即位した。今日の英国王位継承権を保持する人物は、全員がゾフィーの子孫である。
系図[編集]
アレグザンダー・ステュアート 王室執事長 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ジェームズ・ステュアート 王室執事長 | ジョン・ステュアート・オブ・ボンキル | ジョン・オブ・ゴーント ランカスター公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ジェームズ1世 (1) | ジョーン・ボーフォート | ジョン・ステュアート ローンの黒騎士 | ジョン・ボーフォート サマセット公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
メアリー・オブ・グエルダース | ジェームズ2世 (2) | ジョン・ステュアート アサル伯 | マーガレット・ボーフォート | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マーガレット・オブ・デンマーク | ジェームズ3世 (3) | メアリー・ステュアート | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
エリザベス・ハミルトン | マシュー・ステュアート レノックス伯 | ヘンリー7世 <1> | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アントワネット・ド・ブルボン=ヴァンドーム | クロード・ド・ロレーヌ ギーズ公 | ジェームズ4世 (4) | マーガレット・テューダー | アーチボルド・ダグラス アンガス伯 | エリザベス・ステュアート | ジョン・ステュアート レノックス伯 | ジョージ・ダグラス | ヘンリー8世 <2> | メアリー・テューダー | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
メアリー・オブ・ギーズ | ジェームズ5世 (5) | マーガレット・ダグラス | マシュー・ステュアート レノックス伯 | ジョン・ステュアート オウビーニュイ卿 | ジェームズ・ダグラス モートン伯 | メアリー1世 <5> | エリザベス1世 <6> | エドワード6世 <3> | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ジェームズ・ステュアート マリ伯 | フランソワ2世 フランス王 | メアリー (6) | ヘンリー・ステュアート ダーンリー卿 | チャールズ・ステュアート レノックス伯 | エズメ・ステュアート レノックス公 | ジェーン・グレイ <4> | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ジェームズ6世/1世 (7)<7> | アン・オブ・デンマーク | アラベラ・ステュアート | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヘンリー・フレデリック ウェールズ公 | フリードリヒ5世 プファルツ選帝侯 | エリザベス | チャールズ1世 (8)<8> | ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
カール1世ルートヴィヒ プファルツ選帝侯 | ルパート カンバーランド公 | モーリス | ゾフィー | チャールズ2世 (9)<9> | メアリー・ヘンリエッタ | ジェームズ7世/2世 (10)<10> | ヘンリー グロスター公 | ヘンリエッタ・アン | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ジョージ1世 [2] | ウィリアム2世/3世 (11)<11> | メアリー2世 (11)<11> | アン (12)<12>[1] | ジェームズ (大僭称者) | ルイーザ・マリア・テレーザ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
( )はスコットランド王/女王、<>はイングランド王/女王、[ ]はグレートブリテン王/女王の即位順
逸話[編集]
- Lianda de Lisleの "After Elizabeth" によれば、7歳までまともに歩けなかったという。フィクションではあるがJean Plaidyの "The Murder in the Tower" でも、5歳まで歩いたことがなかったとされている(常に家臣が抱きかかえて運んだ)。チャールズ1世も歩き出すのが非常に遅かったため、何らかの遺伝病の可能性もある。
- 幼い頃、枢密院の玉座に座っていた際、屋根に穴を発見し「この議会には穴がある」と言ったところ、直後に重臣の一人が暗殺され、予言者との評判を得た。
- 「ブリテンのソロモン王」の異名をとったが、それはソロモン王のように賢いというほめ言葉であると同時に、父親がダーンリーではなく母の秘書のデイヴィッド・リッチオだろう(デイヴィッド=ソロモンの父ダビデのこと)という悪口でもあった。
- 1601年4月15日にスコーン・ロッジのフリーメイソンに加入している[11]。
- 1613年にジョン・セーリスが船長を務めるクローブ号がジェームズ1世からの書簡と贈呈品をもって日本の長崎、ついで平戸に到着した。当時、将軍職を退いて駿府城にいた徳川家康には望遠鏡(アジアに望遠鏡が伝わるのはこれが初めてだったとも言われる)、江戸にいる将軍徳川秀忠には金のカップとカバーとイングランド製の布地が贈られた。セーリスには、返礼として秀忠から2組の鎧、家康から金屏風が託された。またセーリスは家康の顧問を務めていた英国人ウィリアム・アダムス(三浦按針)の協力を得て、家康から朱印状(貿易許可証)を得て平戸にイギリス商館を開設している。1613年にクローブ号は帰国の途に就き、金屏風と鎧はジェームズ1世に届けられた。これをきっかけにジェームズ1世はアジアに関心を持ち、セーリスの航海日誌を5回も読んだといわれる[12]。
著書[編集]
- 『デモノロジー』(Daemonologie, 1597年)
脚注[編集]
- ^ a b c d e f 君塚直隆 (2015.5.25). 物語 イギリスの歴史(下). 中公新書
- ^ 度会好一 (1999.9.15). 魔女幻想. 中公新書
- ^ ジェームズ1世は、1609年のイングランド議会でも「王が神とよばれるのは正しい。そのわけは、王が地上において神の権力にも似た権力をふるっているからである。……王はすべての臣民のあらゆる場合の裁き手であり、しかも神以外のなにものにも責任を負わない」と演説している。大野(1975)
- ^ 青木(2000) p.241-242
- ^ トレヴェリアン(1974) p.114
- ^ a b ベンジャミン・ファリントン(著)松川七郎・中村恒矩 (翻訳) (1968.4.20). フランシス・ベイコン. 岩波書店
- ^ a b 竹田いさみ (2011.2.10). 世界史をつくった海賊. ちくま新書
- ^ “日英交流400周年”. 2020年6月3日閲覧。
- ^ 大江一道 (1988.5). 世界と日本の歴史⑥. 大月書店
- ^ 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 57.
- ^ “James VI of Scotland” (英語). Grand Lodge of British Columbia and Yukon. 2014年9月25日閲覧。
- ^ 2013 年は日英交流 400 周年 ~JAPAN400 のご紹介~
出典[編集]
- 青木道彦『エリザベス一世 大英帝国の幕開け』講談社〈講談社現代新書1486〉、2000年(平成12年)。ISBN 978-4120040290。
- G.M.トレヴェリアン『イギリス史 2』大野真弓訳、みすず書房、1974年(昭和49年)。ISBN 978-4622020363。
- 大野真弓『世界の歴史8 絶対君主と人民』中央公論社〈中公文庫〉、1975年2月。
- de Lisle, Lianda "After Elizabeth"
- 松村赳、富田虎男『英米史辞典』研究社、2000年(平成12年)。ISBN 978-4767430478。
関連項目[編集]
先代: メアリー1世 |
スコットランド王 1567年 - 1625年 |
次代: チャールズ1世 |
先代: エリザベス1世 |
イングランド王 アイルランド王 1603年 - 1625年 |
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