スペイン

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スペイン王国
Reino de España
スペインの国旗 スペインの国章
国旗 国章
国の標語:Plus Ultra
ラテン語:更なる前進)
国歌Marcha Real(スペイン語)
国王行進曲
スペインの位置
公用語 スペイン語[1]
首都 マドリード
最大の都市 マドリード
政府
国王 フェリペ6世
政府首班 ペドロ・サンチェス
元老院議長マヌエル・クルス・ロドリゲス
代議院議長メリクセル・バテット
最高裁判所長官カルロス・レスメス・セラーノ
面積
総計 506,000[2]km250位
水面積率 1.0%
人口
総計(2018年 46,723,749人(30位[3]
人口密度 92人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2018年 1兆2082億[4]ユーロ (€)
GDP(MER
合計(2018年 1兆4,275億[4]ドル(13位
GDP(PPP
合計(2018年1兆8,659億[4]ドル(15位
1人あたり 39,934[4]ドル
建国
スペイン王国成立
カトリック両王の同君連合として)
1479年1月20日
立憲君主制1812年3月19日
第一共和政1873年2月11日
フランコ政権1939年4月1日
王政復古1975年11月22日
通貨 ユーロ (€)(EUR[5][6]
時間帯 UTC +1(DST:+2)[7]
ISO 3166-1 ES / ESP
ccTLD .es
国際電話番号 34
  1. ^ カタルーニャ語ヴァレンシア語)、バスク語ガリシア語が該当の自治州においてカスティーリャ語(スペイン語)とともに公用語として認められている。2010年にはそれまでカタルーニャ州内のアラン谷地域の公用語であったアラン語がカタルーニャ州全体の公用語に規定された。
  2. ^ スペイン王国基礎データ”. 外務省. 2018年11月5日閲覧。
  3. ^ Cifras de Población a 1 de enero de 2016. Datos Provisionales”. スペイン国立統計局. 2016年12月11日閲覧。
  4. ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]
  5. ^ 1999年以前の通貨はペセタ
  6. ^ スペインのユーロ硬貨も参照。
  7. ^ カナリア諸島はUTC±0を採用。

スペイン王国スペインおうこく西: Reino de España)、スペイン国スペインこく西: Estado español)またはスペインは、南ヨーロッパイベリア半島に位置し、同半島の大部分を占める 議会君主制国家。首都マドリード。西にポルトガル、南にイギリスジブラルタル、北東にフランスアンドラと国境を接し、アフリカ大陸にある飛地セウタメリリャではモロッコと陸上国境を接する。本土以外に、西地中海バレアレス諸島や、大西洋カナリア諸島北アフリカセウタメリリャアルボラン海アルボラン島を持っている。

国名[編集]

スペイン1978年憲法では正式な国名は定められておらず、スペイン語で、España[esˈpaɲa] ( 音声ファイル)、エスパーニャ)、Reino de España(レイノ・デ・エスパーニャ) 、Estado español(エスタード・エスパニョール)の3つが用いられている[1][2]

日本語の表記はそれぞれ、スペインスペイン王国スペイン国。これは英語表記の「Spain」に基づく。漢字による表記西班牙で、西と略す。ただし、江戸時代以前の日本においては、よりスペイン語の発音に近い「イスパニア」「イスパニヤ」という呼称が用いられていた。語源は古代ローマ人のイベリア半島の呼び名「ヒスパニア」である。

英語表記で国民はSpaniard、形容詞はSpanish

España(エスパーニャ)」とは、フェニキア語で「ハイラックスの島」を意味する「i-shaphanim」に由来とされ、フェニキア人が同地に生息していたノウサギをそれと誤認したことから生まれたとされる。その後古代ギリシア語で「Ἱσπανια(Hispania)」、古ラテン語で「Hispānia」、俗ラテン語で「Spania」、アングロ=ノルマン語で「Espayne」と変化していった。

「エスパーニャ」という名称は、長らく同地を指す俗称だった。1492年の王国統合以降でも国王はあくまで連合王国(「カトリック(またはスペイン)君主制国(モナルキア)」と称されることが多かった)の共通君主に過ぎず、宮廷や議会・政府は各構成国毎に置かれている諸侯連合だった。1624年に宰相オリバーレスは国王に「スペイン国王」となるよう提案したが実現しなかった。1707年発布の新組織王令により複合王政は廃止され、単一の中央集権国となった。しかしこの時もスペインは国号とはならず、1808年ナポレオン・ボナパルトの兄ホセ1世の即位時に正式にスペイン国王が誕生した(スペイン国旗が登場したのは1785年)。

1978年憲法で、それまで明記されていた国号が定められなかったのは、君主制は維持するものの、その位置付けは象徴的な存在に変わり、国を動かすのは国民によって選ばれた議会が中心になることを明確化するために採られた措置であった。

なお、スペイン外務省は1984年に、「スペイン王国」と「スペイン」を国際条約においては同等と見なすとの法令を出した。現在は国際条約や国際組織の文書、国内の公式文書や外交文書において前者が公式国名として使用される事が多い[3]

歴史[編集]

先史時代から前ローマ時代[編集]

アタプエルカ遺跡の考古学的研究から120万年前にはイベリア半島に人類が居住していたことが分かっている[4]。3万5000年前にはクロマニョン人ピレネー山脈を越えて半島へ進出し始めている。有史以前の最もよく知られた遺物が北部カンタブリア州アルタミラ洞窟壁画で、これは紀元前1万5000年の物である。

鉄器時代の半島には北東部から南西部の地中海側にイベリア人が、北部から北西部の大西洋側にはケルト人が住んでいた。半島の内部では2つの民族が交わりケルティベリア文化が生まれている。またピレネー山脈西部にはバスク人がいた。アンダルシア地方には幾つものその他の民族が居住している。南部の現在のカディス近くにはストラボンの『地理誌』に記述されるタルテッソス王国(紀元前1100年頃)が存在していたとされる。

紀元前500年から紀元前300年頃にフェニキア人ギリシャ人が地中海沿岸部に植民都市を築いた。ポエニ戦争の過程でカルタゴが一時的に地中海沿岸部の大半を支配したものの、彼らは戦争に敗れ、ローマ人の支配に代わった[5]

ローマ帝国とゲルマン系諸王国[編集]

メリダのローマ劇場

紀元前202年、第二次ポエニ戦争の和平でローマは沿岸部のカルタゴ植民都市を占領し、その後、支配を半島のほぼ全域へと広げ属州ヒスパニアとし、法と言語とローマ街道によって結びつけ、その支配はその後500年以上続くことになる[6]。原住民のケルト人やイベリア人はローマ化されてゆき、部族長たちはローマの貴族階級に加わった[5]。ヒスパニア州はローマの穀倉地帯となり、港からは金、毛織物、オリーブオイルそしてワインが輸出された。キリスト教は1世紀に伝えられ、2世紀には都市部に普及した[5]。現在のスペインの言語、宗教、法原則のほとんどはこの時期が原型となっている[6]

ローマの支配は409年ゲルマン系スエビ族ヴァンダル族アラン族が、それに続いて西ゴート族が侵入して終わりを告げた。410年頃、スエビ族はガリシアと北部ルシタニア(現ポルトガル)の地にスエビ王国ガリシア王国)を建て、その同盟者のヴァンダル族もガリシアからその南方のドウロ川にかけて王国を建てている。415年頃、西ゴート族が南ガリアに西ゴート王国を建国し、418年頃に最終的にヒスパニア全域を支配した。552年には東ローマ帝国ジブラルタル海峡制海権を求めて南部に飛び地のスパニア英語版を確保し、ローマ帝国再建の手がかりにしようとした。西ゴート王国治下の589年トレド教会会議が開催され、国王レカレド1世がそれまで西ゴート族の主流宗旨だったアリウス派からカトリック教会に改宗し、以後イベリア半島のキリスト教の主流はカトリックとなった。

イスラームの支配[編集]

711年北アフリカからターリク・イブン=ズィヤード率いるイスラーム勢力ウマイヤ朝が侵入し、西ゴート王国グアダレーテの戦い英語版で敗れて718年に滅亡した。この征服の結果イベリア半島の大部分がイスラーム治下に置かれ、イスラームに征服された半島はアラビア語アル・アンダルスと呼ばれようになった。他方、キリスト教勢力はイベリア半島北部の一部(現在のアストゥリアス州カンタブリア州ナバーラ州そして 北部アラゴン州)に逃れてアストゥリアス王国を築き、やがてレコンキスタ(再征服運動)を始めることになる[5]

イスラームの支配下ではキリスト教徒ユダヤ教徒啓典の民として信仰を続けることが許されたが、ズィンミー(庇護民)として一定の制限を受けた[7]

後ウマイヤ朝の首都コルドバに建設されたメスキータモスク)の内部

シリアダマスカスにその中心があったウマイヤ朝はアッバース革命により750年に滅ぼされたが、アッバース朝の捕縛を逃れたウマイヤ朝の王族アブド・アッラフマーン1世はアンダルスに辿り着き、756年後ウマイヤ朝を建国した。後ウマイヤ朝のカリフが住まう首都コルドバは当時西ヨーロッパ最大の都市であり、最も豊かかつ文化的に洗練されていた。後ウマイヤ朝下では地中海貿易と文化交流が盛んに行われ、ムスリムは中東や北アフリカから先進知識を輸入している。更に、新たな農業技術や農産物の導入により、農業生産が著しく拡大した。後ウマイヤ朝の下で、既にキリスト教化していた住民のイスラームへの改宗が進み、10世紀頃のアンダルスではムワッラド(イベリア半島出身の改宗ムスリム)が住民の大半を占めていたと考えられている[8][9]。イベリア半島のイスラーム社会自体が緊張に取り巻かれており、度々北アフリカのベルベル人が侵入してアラブ人と戦い、多くのムーア人グアダルキビール川周辺を中心に沿岸部のバレンシア州、山岳地域のグラナダに居住するようになっている[9]

11世紀に入ると1031年に後ウマイヤ朝は滅亡し、イスラームの領域は互いに対立するタイファ諸王国に分裂した。イスラーム勢力の分裂は、それまで小規模だったナバラ王国カスティーリャ王国アラゴン王国などのキリスト教諸国が大きく領域を広げる契機となった[9]。キリスト教勢力の伸張に対し、北アフリカから侵入したムラービト朝ムワッヒド朝が統一を取り戻し、北部へ侵攻したもののキリスト教諸国の勢力拡大を食い止めることはできなかった[5]

イスラーム支配の終焉と統一[編集]

レコンキスタ(再征服運動:Reconquista)は数百年にわたるスペイン・キリスト教諸国の拡大であった。レコンキスタはアストゥリアス王国のペラーヨ722年コバドンガの戦いに勝利したことに始まると考えられ、イスラームの支配時期と同時に進行していた。キリスト教勢力の勝利によって北部沿岸山岳地域にアストゥリアス王国が建国された。イスラーム勢力はピレネー山脈を越えて北方へ進軍を続けたが、トゥール・ポワティエ間の戦いフランク王国に敗れた。その後、イスラーム勢力はより安全なピレネー山脈南方へ後退し、エブロ川ドウロ川を境界とする。739年にはイスラーム勢力はガリシアから追われた。しばらくのちにフランク軍はピレネー山脈南方にキリスト教伯領(スペイン辺境領)を設置し、後にこれらは王国へ成長した。これらの領域はバスク地方アラゴンそしてカタルーニャを含んでいる[5]

アンダルスが相争うタイファ諸王国に分裂してしまったことによって、キリスト教諸王国は大きく勢力を広げることになった。1085年トレドを奪取し、その後、キリスト教諸国の勢力は半島の北半分に及ぶようになった。12世紀にイスラーム勢力は一旦は再興したものの、13世紀に入り、1212年ナバス・デ・トロサの戦いでキリスト教連合軍がムワッヒド朝ムハンマド・ナースィルに大勝すると、イスラーム勢力の南部主要部がキリスト教勢力の手に落ちることになった。1236年コルドバが、1248年セビリアが陥落し、ナスル朝グラナダ王国がカスティーリャ王国の朝貢国として残るのみとなった[10]

13世紀14世紀に北アフリカからマリーン朝が侵攻したが、イスラームの支配を再建することはできなかった。13世紀にはアラゴン王国の勢力は地中海を越えてシチリアに及んでいた[11]。この頃にヨーロッパ最初期の大学であるバレンシア大学1212年/1263年)とサラマンカ大学1218年/1254年)が創立されている。1348年から1349年黒死病大流行によってスペインは荒廃した[12]

1469年イサベル女王フェルナンド国王の結婚により、カスティーリャ王国アラゴン王国が統合される。再征服の最終段階となり、1478年カナリア諸島が、そして1492年にグラナダが陥落した。これによって、781年に亘ったイスラーム支配が終了した。グラナダ条約英語版ではムスリムの信仰が保障されている[13]。この年、イサベル女王が資金を出したクリストファー・コロンブスアメリカ大陸に到達している。またこの年にスペイン異端審問が始まり、ユダヤ人に対してキリスト教に改宗せねば追放することが命ぜられた[14]。その後同じ条件でムスリムも追放された[5]

イサベル女王とフェルナンド国王は貴族層の権力を抑制して中央集権化を進め、またローマ時代のヒスパニア (Hispania) を語源とするエスパーニャ (España) が王国の総称として用いられるようになった[5]。政治、法律、宗教そして軍事の大規模な改革が行われ、スペインは史上初の世界覇権国家として台頭することになる。

スペイン帝国[編集]

スペイン・ポルトガル同君連合(1580年–1640年)時代のスペイン帝国の版図(赤がスペイン領、青がポルトガル領)

1516年ハプスブルク家のカール大公がスペイン王カルロス1世として即位し、スペイン・ハプスブルク朝が始まる。カルロス1世は1519年神聖ローマ皇帝カール5世としても即位し、ドイツで始まったプロテスタント宗教改革に対するカトリック教会の擁護者となった。

16世紀前半にエルナン・コルテスペドロ・デ・アルバラードフランシスコ・ピサロをはじめとするコンキスタドーレスアステカ文明マヤ文明インカ文明などアメリカ大陸の文明を滅ぼす。アメリカ大陸の住民はインディオと呼ばれ、奴隷労働によってを採掘させられ、ポトシグアナフアトの銀山から流出した富はオスマン帝国イギリスとの戦争によってイギリスやオランダに流出し、ブラジルの富と共に西ヨーロッパ先進国資本の本源的蓄積の原初を担うことになった。これにより、以降5世紀に及ぶラテンアメリカの従属と低開発が規定された[15]

スペイン帝国はその最盛期には南アメリカ中央アメリカの大半、メキシコ北アメリカの南部と西部、フィリピングアムマリアナ諸島北イタリアの一部、南イタリアシチリア島、北アフリカのいくつかの都市、現代のフランスドイツの一部、ベルギールクセンブルクオランダを領有していた[16]。また、1580年ポルトガル王国エンリケ1世が死去しアヴィシュ王朝が断絶すると、以後スペイン王がポルトガル王を兼ねている。植民地からもたらされた富によってスペインは16世紀から17世紀のヨーロッパにおける覇権国的地位を得た。

フェリペ2世

このハプスブルク朝のカルロス1世(1516年 - 1556年)とフェリペ2世1556年 - 1598年)の治世が最盛期であり、スペインは初めての「太陽の没することなき帝国」となった。海上と陸上の探検が行われた大航海時代であり、大洋を越える新たな貿易路が開かれ、ヨーロッパの植民地主義が始まった。探検者たちは貴金属、香料、嗜好品、新たな農作物とともに新世界に関する新たな知識をもたらした。この時期はスペイン黄金世紀と呼ばれる。なお、1561年、フェリペ2世は宮廷をマドリードに移し、以後マドリードは今日に至るまでスペインの首都となっている。

この時期にはイタリア戦争1494年 - 1559年)、コムニダーデスの反乱1520年 - 1521年)、ネーデルラントの反乱(八十年戦争)(1568年 - 1648年)、モリスコの反乱英語版1568年)、オスマン帝国との衝突英語版(レパントの海戦, 1571年)、英西戦争1585年 - 1604年)、モリスコ追放1609年)、そしてフランス・スペイン戦争1635年 - 1659年)が起こっている。

16世紀末から17世紀にかけて、スペインはあらゆる方面からの攻撃を受けた。急速に勃興したオスマン帝国と海上で戦い、イタリアやその他の地域でフランスと戦火を交えた。さらに、プロテスタントの宗教改革運動との宗教戦争の泥沼にはまり込む。その結果、スペインはヨーロッパと地中海全域に広がる戦場で戦うことになった[17]

16世紀のスペインのガレオン船

1588年アルマダの海戦無敵艦隊英国に敗れて弱体化を開始する。三十年戦争1618年 - 1648年)にも部隊を派遣。白山の戦いの勝利に貢献し、ネルトリンゲンの戦いでは戦勝の立役者となるなど神聖ローマ皇帝軍をよく支えた(莫大な財政援助も行っていた)。しかしその見返りにスペインが期待していた皇帝軍の八十年戦争参戦やマントヴァ公国継承戦争への参戦は実現しなかった。戦争の終盤にはフランスに手痛い敗北を受けている。これらの戦争はスペインの国力を消耗させ、衰退を加速させた。

1640年にはポルトガル王政復古戦争によりブラガンサ朝ポルトガルが独立し、1648年にはオランダ共和国独立を承認、1659年にはフランス・スペイン戦争を終結させるフランスとのピレネー条約を不利な条件で締結するなど、スペインの黄金時代は終わりを告げた。

18世紀の初頭のスペイン継承戦争1701年 - 1713年)が衰退の極みとなった。この戦争は広範囲の国際紛争になったとともに内戦でもあり、ヨーロッパにおける領土の一部と覇権国としての地位を失わせることとなる[5]。しかしながら、スペインは広大な海外領土を19世紀初めまで維持拡大し続けた。

この戦争によって新たにブルボン家が王位に就き、フェリペ5世がカスティーリャ王国とアラゴン王国を統合させ、それまでの地域的な特権を廃止し、二国で王位を共有していたスペインを真に一つの国家としている[5]

1713年1714年ユトレヒト条約ラシュタット条約によるスペイン・ブルボン朝の成立後、18世紀には帝国全域において再建と繁栄が見られた。1759年に国王に即位した啓蒙専制君主カルロス3世治下でのフランスの制度の導入は、行政経済の効率を上げ、スペインは中興を遂げた。またイギリス、フランス発の啓蒙思想ホベジャーノススペイン語版英語版や、フェイホースペイン語版英語版によって導入され、一部の貴族や王家の中で地歩を築くようになっていた。18世紀後半には貿易が急速に成長し、1776年に勃発したアメリカ独立戦争ではアメリカ独立派に軍事援助を行い、国際的地位を向上させている[18]

斜陽の帝国[編集]

1789年にフランス革命が勃発すると、1793年にスペインは革命によって成立したフランス共和国との戦争(フランス革命戦争)に参戦したが、戦場で敗れて1796年にサン・イルデフォンソ条約を結び、講和した。その後スペインはイギリス、ポルトガルに宣戦布告し、ナポレオン率いるフランス帝国と結んだスペインは、フランス海軍と共に1805年にイギリス海軍トラファルガーの海戦を戦ったものの惨敗し、スペイン海軍は壊滅した。

19世紀初頭にはナポレオン戦争とその他の要因が重なって経済が崩壊状態になり、1808年3月にスペインの直接支配を目論んだフランスによってブルボン朝のフェルナンド7世が退位させられ、ナポレオンの兄のジョゼフがホセ1世としてスペイン国王に即位した。この外国の傀儡国王はスペイン人にとっては恥辱とみなされ、即座にマドリードで反乱が発生した。これが全土へ広がり、1808年からいわゆるスペイン独立戦争に突入する[19]。ナポレオンは自ら兵を率いて介入し、連携の悪いスペイン軍とイギリス軍を相手に幾つかの戦勝を収めるものの、スペイン軍のゲリラ戦術とウェリントン率いるイギリス・ポルトガル軍を相手に泥沼にはまり込んでしまう。その後のナポレオンのロシア遠征の破滅的な失敗により、1814年にフランス勢力はスペインから駆逐され、フェルナンド7世が復位した[20]。フェルナンド7世は復位後絶対主義への反動政策を採ったため、自由主義を求めるスペイン人の支持を受けて1820年にラファエル・デル・リエゴ将軍が率いるスペイン立憲革命が達成され、戦争中にカディスで制定されたスペイン1812年憲法が復活したが、ウィーン体制の崩壊を恐れる神聖同盟の干渉によって1823年にリエゴ将軍は処刑され、以後1世紀に及ぶ政治的不安定と分裂を決定付けた。また、挫折した立憲革命の成果もあって、1825年シモン・ボリーバルをはじめとするリベルタドーレスの活躍によって南米最後の植民地ボリビアが独立し、キューバプエルトリコ以外のアメリカ大陸の植民地を失った。

立憲革命挫折後の19世紀スペインは、王統の正統性を巡って三次に亘るカルリスタ戦争が勃発するなどの政治的不安定と、イギリスやベルギードイツ帝国アメリカ合衆国で進行する産業革命に乗り遅れるなどの経済的危機にあった。1873年にはスペイン史上初の共和制移行(スペイン第一共和政)も起こったが、翌1874年には王政復古した。また、19世紀後半には植民地として残っていたフィリピンキューバで独立運動が発生し、1898年ハバナアメリカ海軍メイン号が爆沈したことをきっかけに、これらの植民地の独立戦争にアメリカ合衆国が介入した。この米西戦争に於いて、スペイン軍の幾つかの部隊は善戦したものの、高級司令部の指揮が拙劣で短期間で敗退してしまった。この戦争は "El Desastre"(「大惨事」)の言葉で知られており、敗戦の衝撃から「98年の世代英語版」と呼ばれる知識人の一群が生まれた。

スペイン内戦終結まで[編集]

スペインはアフリカ分割では僅かな役割しか果たさず、スペイン領サハラ西サハラ)とスペイン領モロッコ英語版モロッコ)、スペイン領ギニア英語版赤道ギニア)を獲得しただけだった。スペインは1914年に勃発した第一次世界大戦を中立で乗り切り、アメリカ合衆国発のインフルエンザパンデミックが中立国スペインからの情報を経て世界に伝わったため、「スペインかぜ」と呼ばれた。第一次世界大戦後、1920年にスペイン領モロッコで始まった第3次リーフ戦争では大損害を出し、フランス軍の援軍を得て1926年に鎮圧したものの、国王の権威は更に低下した。内政ではミゲル・プリモ・デ・リベラ将軍の愛国同盟英語版(後にファランヘ党に吸収)による軍事独裁政権(1923年 - 1930年)を経て、1930年にプリモ・デ・リベーラ将軍が死去すると、スペイン国民の軍政と軍政を支えた国王への不満の高揚により、翌1931年にアルフォンソ13世が国外脱出し、君主制は崩壊した。君主制崩壊によりスペイン1931年憲法英語版が制定され、スペイン第二共和政が成立した。第二共和国はバスクカタルーニャそしてガリシアに自治権を与え、また女性参政権も認められた。

しかしながら、左派と右派との対立は激しく、政治は混迷を続け、1936年の選挙にて左翼共和党英語版 (IR)、社会労働党 (PSOE)、共産党 (PCE) ら左派連合のマヌエル・アサーニャスペイン人民戦線政府が成立すると軍部が反乱を起こしスペイン内戦が勃発した。3年に及ぶ内戦はソビエト連邦の支援を受けた共和国政府をナチス・ドイツイタリア王国の支援を受けたフランシスコ・フランコ将軍が率いる反乱軍が打倒することで終結した。第二次世界大戦の前哨戦となったこの内戦によってスペインは甚大な物的人的損害を被り、50万人が死亡[21] 、50万人が国を捨てて亡命し[22]、社会基盤は破壊され国力は疲弊しきってしまっていた。

フランコ独裁体制[編集]

フランシスコ・フランコ総統。1939年から1975年までスペインの事実上の元首として君臨した。

1939年4月1日から1975年11月22日まで、スペイン内戦の終結からフランシスコ・フランコの死去までの36年間は、フランコ独裁下のフランコ体制下のスペインの時代であった。フランコが結成したファランヘ党1949年に国民運動に改称)の一党制となり、ファランヘ党は反共主義カトリック主義ナショナリズムを掲げた。

第二次世界大戦ではフランコ政権は枢軸国寄りであり、ソ連と戦うための義勇兵としてナチス・ドイツ青師団を派遣したが、正式な参戦はせずに中立を守った。

第二次世界大戦終結後、ファシズム体制のスペインは政治的、経済的に孤立し、1955年まで国際連合にも加入できなかった。しかし、東西冷戦の進展とともにアメリカはイベリア半島への軍事プレゼンスの必要性からスペインに接近するようになり、スペインの国際的孤立は緩和した。また、フランコは1957年にモロッコとの間で勃発したイフニ戦争Ifni War)などの衝突を経た後、国際的な脱植民地化の潮流に合わせて徐々にそれまで保持していた植民地を解放し、1968年10月12日には赤道ギニアの独立を認めた。フランコ主義下のスペイン・ナショナリズムの高揚は、カタルーニャやバスクの言語や文化への弾圧を伴っており、フランコ体制の弾圧に対抗して1959年に結成されたバスク祖国と自由(ETA)はバスク民族主義の立場からテロリズムを繰り広げ、1973年にフランコの後継者だと目されていたルイス・カレーロ・ブランコ首相を暗殺した。

王政復古から現在[編集]

1975年11月22日にフランコ将軍が死ぬと、その遺言により フアン・カルロス王子(アルフォンソ13世の孫)が王座に就き、王政復古がなされた。フアン・カルロス国王は専制支配を継続せず、スペイン1978年憲法の制定により民主化が達成され、スペイン王国は制限君主制国家となった。1981年2月23日には軍政復帰を目論むアントニオ・テヘーロ中佐ら一部軍人によるクーデター未遂事件が発生したものの、毅然とした態度で民主主義を守ると宣言した国王に軍部の大半は忠誠を誓い、この事件は無血で鎮圧された (23-F)。

民主化されたスペインは1982年北大西洋条約機構(NATO)に加入、同年の1982年スペイン議会総選挙により、スペイン社会労働党 (PSOE) からフェリペ・ゴンサレス首相が政権に就き43年ぶりの左派政権が誕生した。1986年にはヨーロッパ共同体(現在の欧州連合)に加入。1992年にはバルセロナオリンピックを開催した。一方、国内問題も抱えており、スペインはバスク地域分離運動のETAによるテロ活動に長年悩まされている。1982年に首相に就任したゴンサレスは14年に亘る長期政権を実現していたが、1996年スペイン議会総選挙にて右派国民党 (PP) に敗れ、ホセ・マリア・アスナールが首相に就任した。

21世紀に入ってもスペインは欧州連合の平均を上回る経済成長を続けているが、住宅価格の高騰と貿易赤字が問題となっている[23]

2002年7月18日ペレヒル島危機英語版が起こり、モロッコとの間で緊張が高まったが、アメリカの仲裁で戦争には至らなかった。同年9月、アスナール首相がイラク戦争非常任理事国として支持、2003年3月のイラク戦争開戦後は有志連合の一員として、米英軍と共にイラクスペイン軍1400人を派遣した。2004年3月11日スペイン列車爆破事件が起き、多数の死傷者を出した。選挙を3日後に控えていた右派のアスナール首相はこれを政治利用し、バスク祖国と自由 (ETA) の犯行だと発表したが、3月14日に実施された2004年スペイン議会総選挙では左派の社会労働党が勝利し、サパテロ政権が誕生した。サパテロ首相は就任後、2004年5月にイラク戦争に派遣されていたスペイン軍を撤退させた。また、後に2004年の列車爆破事件はアルカーイダの犯行[24]CIAからの発表があると、この対応を巡って政治問題となった。サパテロ政権は2008年スペイン議会総選挙でも勝利したが、同年9月のリーマン・ショック勃発により、スペインの経済英語版は壊滅的な打撃を受けた。

2011年スペイン議会総選挙では国民党が勝利し、マリアーノ・ラホイが首相に就任した。

2016年9月、去年と今年の2度の総選挙を行っても政権を樹立出来ないままだったが、第一党の国民党のラホイ首相を首班とする政権樹立を下院で反対多数で否決し、またもや政権樹立に失敗。11月3日になってようやくラホイ再任が決定し新内閣が発足した。

2017年10月27日カタルーニャ州が独立宣言を行う(カタルーニャ共和国)も、スペイン側はカタルーニャの自治権を剥奪し直轄統治を開始[25]

政治[編集]

政体議会君主制。1975年のフアン・カルロス1世の即位による王政復古により成立した現在の政体では、国王は象徴君主という位置づけであり、主権は国民に在する。国王は国家元首であり、国家の統一と永続の象徴と規定されており、国軍の名目上の最高指揮官である。国王は議会の推薦を受けて政府首班(首相)の指名を行うほか、首相の推薦を受けて閣僚の任命を行う。現行憲法スペイン1978年憲法である。

国会両院制であり、スペイン下院は定数350議席で4年ごとの直接選挙で選ばれ、スペイン上院は定数264議席で208議席が選挙によって選出され、残り56議席が自治州の推薦で選ばれる。

2019年2月現在の与党はスペイン社会労働党で、国民党と共に二大政党制を構成する。2012年頃より勢力を拡大した共和系政党であるポデモス、2015年頃より勢力を拡大したシウダダノスを併せて四大政党制とされることもある。上述のようにスペインの首相は国王が指名を行うため必ずしも議会の最多議席政党の党首が首相に就任するわけではなく、議席上は上下院ともにスペイン社会労働党はスペイン国民党よりも議席数が少ない状態になっている。その他には、スペイン共産党を中心に左翼少数政党によって構成される政党連合統一左翼連合・進歩・民主主義などの全国政党のほかに、集中と統一 (CiU)、カタルーニャ共和主義左翼(ERC)、バスク民族主義党(EAJ-PNV)、ガリシア民族主義ブロック(BNG)、カナリア連合=カナリア民族主義党(CC–PNC)などカタルーニャやバスク、ガリシア、カナリア諸島の民族主義地域政党が存在する。

軍事[編集]

スペイン軍陸軍海軍空軍グアルディア・シビルの4つの組織から構成されている。国王は憲法によって国軍の最高指揮官であると規定されている。2001年末に徴兵制が廃止され、志願制に移行した。2007年の時点で総兵力は147,000人、予備役は319,000人である。

軍事費(防衛費)の対GDP比は日本と同程度の約1%内外[26] にとどまり、NATO諸国の中で比較しても低率な方ではあるが、イージス艦軽空母強襲揚陸艦マルチロール機ユーロファイター タイフーンレオパルト2EA6戦車など、他の主要先進国にも引けを取らない最新鋭の兵器を配備している。

国際関係[編集]

旧植民地であったラテンアメリカ諸国との伝統的友好関係も非常に重要となっており、毎年スペイン・ポルトガルとラテンアメリカ諸国の間で持ち回りで開催されるイベロアメリカ首脳会議にも参加している。1986年のEC加盟以降、そこに属してスペインへ資本を輸出する国との関係が相対的に密接となっている。スペインはアフリカ大陸に位置するスペイン領のセウタメリリャの帰属を巡り、モロッコと領土問題を抱えている。モロッコはダノンなどのフランス企業がすでに60年以上かけて事業関係を築いてきた国である。また、スペインが1801年以来実効支配しているオリベンサに対してポルトガルが返還を求めている。ポルトガルとの間には両国を統一すべきであるとのイベリスモ思想も存在する。この点、英葡永久同盟の存在と、イギリスからスペインへ投資が行われていることに注意を要する。ジブラルタル海峡チョークポイントであり、ケーブル・アンド・ワイヤレス海底ケーブルが敷設されている。

日西関係史としては、岩倉使節団の記録である『米欧回覧実記』(1878年発行)には、その当時のスペインの地理・歴史について記述した個所がある[27]。日本の鉱業法はスペインのそれをモデルとしている。

2018年1月1日付けで、外交関係樹立150周年を記念し「日本・スペイン外交樹立関係150周年推進委員会」を設立、「日本・スペイン外交樹立150周年事務局」を外務省欧州局に設置し、周年事業のための公式ロゴも用意された[28]。周年事業登録を募集するサイトも日本語とスペイン語で公開された[29]。同年10月には安倍首相がスペインを訪問。サンチェス首相と会談し、両国の関係を戦略的パートナーシップに格上げすることが合意された[30]

地方行政区画[編集]

自治州と県[編集]

スペインは17の自治州 (comunidad autónoma) から構成される。また、自治州の下に50の (provincia) が存在する。

スペイン自治州
トレド

また、アフリカ沿岸にも5つの領土がある。セウタメリリャの諸都市は、都市と地域の中間的な規模の自治権を付与された都市として統治されている。チャファリナス諸島ペニョン・デ・アルセマス島ペニョン・デ・ベレス・デ・ラ・ゴメラは、スペインが直轄統治している。

主要都市[編集]

2006年1月時点で人口上位の10自治体は以下の通りである。

順位 自治体 人口
1 マドリード マドリード州 3,128,600
2 バルセロナ カタルーニャ州 1,605,602
3 バレンシア バレンシア州 805,304
4 セビリア アンダルシア州 704,414
5 サラゴサ アラゴン州 649,181
6 マラガ アンダルシア州 560,631
7 ムルシア ムルシア州 416,996
8 ラス・パルマス・デ・グラン・カナリア カナリア諸島州 377,056
9 パルマ・デ・マヨルカ バレアレス諸島州 375,048
10 ビルバオ バスク州 354,145

地理[編集]

地形[編集]

スペインの地形
It's a map of the cities of Spain written in Japanese.

スペイン本土は高原や山地(ピレネー山脈シエラ・ネバダ山脈)に覆われている。高地からはいくつかの主要な河川(タホ川エブロ川ドゥエロ川グアディアナ川グアダルキビール川)が流れている。沖積平野は沿岸部に見られ、最大のものはアンダルシア州のグアダルキビール川の平野である。東部の海岸にも中規模な河川(セグラ川フカール川トゥリア川)による平野が見られる。

南部と東部は地中海に面し、バレアレス諸島が東部の海岸沖にある。北と西は大西洋に面し、北部で面している海域はカンタブリア海ビスケー湾)と呼ばれる。カナリア諸島アフリカ大陸の大西洋沖にある。

気候[編集]

全国的には地中海性気候に属する地域が多い。バスク州からガリシア州にかけての北部は西岸海洋性気候であり、降水量が多い。また、本土から南西に離れたカナリア諸島は亜熱帯気候に属する。農業は適地適作であり、北部は麦類、畜産物を産する。中央部では麦類、ぶどう、畜産物を産する。東部では柑橘類、コメ、南部ではオリーブ、ぶどう、野菜、コメ等の生産が盛んである。

標準時[編集]

スペインはイギリス同様、国土の大部分が本初子午線よりも西に位置しているが、標準時としてはイギリスよりも1時間早い中央ヨーロッパ時間を採用している(西経13度から18度にかけて存在するカナリア諸島は、イギリス本土と同じ西ヨーロッパ時間)。このため、西経3度42分に位置するマドリードにおける太陽の南中時刻は午後1時15分頃(冬時間)、午後2時15分頃(夏時間)となり、日の出や日の入りの時刻が大幅に遅れる(カナリア諸島についても同様)。スペインでは諸外国と比べて昼食(午後2時頃開始)や夕食(午後9時頃開始)の時刻が遅いことで有名だが、これは太陽の南中や日没に時間を合わせているためである。

経済[編集]

IMFによると、2015年のスペインのGDPは1兆1997億ドルであり、世界第14位である。韓国オーストラリアなどと同じかやや下回る程度の経済規模であり、EU加盟国では4位である。企業は、金融のサンタンデール銀行ビルバオ・ビスカヤ・アルヘンタリア銀行、通信関連企業のテレフォニカ、電力のイベルドローラザラで知られるアパレルのインディテックス、コンピュータ予約システムで高いシェアを有するアマデウスを提供するIT企業のアマデウスITグループなどが大企業として挙げられる。

世界遺産や歴史的建築物が多数あるため観光業の比重も大きく、GDPに占める観光業の割合は国全体の10%を超えている[31]

欧州統合の効果[編集]

1960年代以来、強権的な労組の解体が進み、フランスを主体とする外資が戻ってきた。欧州経済共同体加盟により投資環境が一挙に改善された。すなわち、近世から旧態以前として障壁となっていたスペインの経済法が欧州全体のルールに取って代わられ、さらに全国産業公社(Instituto Nacional de Industria)というコンツェルンも意義を問われ解体されていった。こうしてスペイン経済は1992年バルセロナオリンピック頃まで高度成長をつづけ、「スペインの年」と一部では呼ばれた。しかしユーロダラーの供給量が増えていたせいで、1992年9月にドイツ・マルクが暴騰した。ここで欧州経済は混乱、スペインもその巻き添えとなった。翌1993年に欧州連合が発足、1999年ペソユーロへ切替わった。21世紀に入ってもスペインは欧州連合の平均を上回る経済成長を続けているが、住宅価格の高騰と貿易赤字が問題となっている[32]アスナール国民党政権の新自由主義的な雇用の流動化政策や土地法(Ley del Suelo de España)改正による土地開発制限の緩和、大規模な公共投資の実地、2003年改正EU電力自由化指令年内達成などによって、ドイツフランスイタリアなど欧州の経済大国を上回る勢いの経済成長を達成した。市場為替相場を基とした国内総生産は2008年は世界9位でカナダを超えた(主要国首脳会議には参加していない)。

21世紀のブラセロス[編集]

スペイン人の労働時間はEU内で第1位である。一方、平均給与はイギリスの4万ユーロに対して2万ユーロに留まっており、経済が労働者に還元されない状態になっている。したがって高騰する土地家屋の取得はスペイン国民にとって重荷になりつつあった。打開策として多くの国民は銀行と土地取得のローン契約を試みた。銀行側も国民の給与が下げ止まっているにも関わらず、土地価格上昇を見込んで安易なローン審査で次々と契約を結んでいった。先端技術をはじめとする国際産業と、そこへ向けられた外国資本が、実体経済に見合わない不動産バブルを生んでいた。それらが撤退すると、土地法改正から7年後となる2005年に、それまでの約2.5倍に高騰していた土地価格が暴落した。世界金融危機の影響で経営難に陥った銀行は融資を行わなくなった。外国人投資家もスペインから資金を引き上げ、スペイン国債を購入する投資家は激減した。雇用の多くを支えていた建設企業は、不況や公共投資の中断によって倒産が相次いだ。さもなくば労働権の後退につけこみ大規模なレイオフを実行して生き残った。解雇や倒産により失業者となった国民は、債権回収として銀行から家屋を没収された。政府による有効な手立ても無く、街中に職も家も無いホームレスが溢れ返った。

ベーシックインカムの提案[編集]

2011年1月から3月までの失業率21.29%、失業者は490万人と過去13年間で最悪の数字となっている[33]。2012年でも失業率は回復せず、さらに悪化した。2012年10月5日、スペインの月次の失業率はスペインの近代史上初めて25%を突破した(スペイン経済危機)。若年失業率は現在[いつ?]52%を超えており、先進国全体の平均の3倍以上に上っている[34]

欧州各国の例にもれなく、スペインでも反グローバリゼーションを主張する運動が展開された。2014年、ベーシックインカム(最低限所得保障)を政治主張に掲げる政治団体ポデモスが結党され、国民党に次ぐ2番目の党員数を集めるなど急速に支持を拡大している。

枯渇が近い鉱産資源[編集]

スペインの鉱業資源は19世紀からリオ・ティントなどの外国資本に思い切り採掘されてきた[35]。21世紀以降、採掘量は減少傾向にある。国際競争力が相対的に低下し、外資の投下される産業分野が多様化している。

有機鉱物資源では、世界の市場占有率の1.4%(2003年時点)を占める亜炭(1228万トン)が有力。品質の高い石炭(975万トン)、原油(32万トン)、天然ガス(22千兆ジュール)も採掘されている。主な炭鉱はアストゥリアス州カスティーリャ・イ・レオン州にある。石炭の埋蔵量は5億トンであり、スペインで最も有力な鉱物である。

金属鉱物資源では、世界第4位(占有率9.8%)の水銀(150トン)のほか、2.1%の占有率のマグネシウム鉱(2.1万トン)の産出が目立つ。そのほか、亜鉛、わずかながらも対象となっている。鉱山はプレート境界に近い南部地中海岸のシエラネバダ山脈シエラ・モレナ山脈に集中している。水銀はシエラ・モレナ山脈が伸びるカスティーリャ地方のシウダ・レアル県に分布する。アルマデン鉱山は2300年以上に亘って、スペインの水銀を支えてきた。鉄は北部バスク地方に分布し、ビルバオが著名である。しかしながらスペイン全体の埋蔵量は600万トンを下回り、枯渇が近い。

その他の鉱物資源では、世界第10位(市場占有率1.5%)のカリ塩、イオウ(同1.1%)、塩(同1.5%)を産出する。

世界一の臓器提供者数[編集]

スペインは臓器移植大国である。スペインの臓器提供者数は長年にわたり世界一である。2006年スペイン人100万人あたりの提供者数は33.8人である。第2位のアメリカ合衆国は27人で、欧州連合加盟国平均が18人であった。スペインの提供率が高い地域は順にバスク州、カンタブリア州、アストゥリアス州、ナバーラ州である。40-60歳代が提供者の29%を占める。男女比は62対38である。提供者の死亡原因は脳出血が最多の60%を占める。スペインは脳死を人の死として規定している。提供臓器は国内だけでなく欧州連合各国にも「輸出」されている。2006年の移植件数は3756件であった。[36]

スペインでは、本人が臓器提供拒否の意思表示をしていない以上、臓器を摘出してもよいとする「オプト・アウト方式」を採用している。この臓器移植体制はスペインで1979年に法制化された。1984年、臓器修復および臓器移植の病院が充足すべき要件が、1979年の臓器移植法に符合するよう規定された。1985年カタルーニャ州は、この分野で異なる病院の連携に責任をもつ部署を設置した。この部署は基本として国内だけでなく、スペインとEU各国との連携も担ってきた。1989年スペイン政府保健医療省が同様の機関を設けて、カタルーニャを除いた国内全域を担当させるようになった。[37]

社会[編集]

民族[編集]

ラテン系を中核とするスペイン人が多数を占める。一方で統一以前の地方意識が根強く、特にカタルーニャバスクなどの住人はスペイン人としてのアイデンティティを否定する傾向にあり、ガリシアカナリア諸島の住民も前二者に比べると、穏健ではあるが、民族としての意識を強く抱いており、それぞれの地方で大なり小なり独立運動がある。それ以外の地方でも地域主義、民族主義の傾向が存在し、運動としては非常に弱いものの独立を主張するものまで存在する。一般に「スペイン人」もしくはその中核とされる旧カスティーリャ王国圏内の住民の間でも、アラゴンアンダルシアの住人とその他のスペイン人とでは大きな違いがあり、それぞれの地方で、風俗、文化、習慣が大きく異なっている。

近年は、世界屈指の移民受け入れ大国となっていて、不況が深刻化した現在では大きな社会問題となっている。外国人人口は全人口の11%に当たる522万人にも上る(2000年の外国人人口は92万人であった)。

言語[編集]

スペイン語(カスティーリャ語とも呼ばれる)がスペインの公用語であり全国で話されており、憲法にも規定されている。その他にも自治州憲章によってカタルーニャ語バレンシア語バスク語ガリシア語アラン語が地方公用語になっているほか、アストゥリアス語アラゴン語もその該当地域の固有言語として認められている。バスク語以外は全てラテン語俗ラテン語)に由来するロマンス語である。また、ラテンアメリカで話されているスペイン語は、1492年以降スペイン人征服者や入植者が持ち込んだものがその起源である。ラテンアメリカで話されるスペイン語とは若干の違いがあるが、相互に意思疎通は問題なく可能である。

ローマ帝国の支配以前にスペインに居住していた人々はケルト系の言語を話しており、ケルト系の遺跡が散在する。現在はケルト系の言葉は廃れている。

北スペインのフランス寄りに、バスク語を話すバスク人が暮らしている。バスク民族の文化や言葉は、スペインのみならず他のヨーロッパとも共通することがなく、バスク人の起源は不明である。このことが、バスク人がスペインからの独立を望む遠因となっている。地域の学校ではバスク語も教えられているが、スペイン語との共通点はほとんどなく、学ぶのが困難である。

言語の一覧[編集]

現在、エスノローグはスペイン国内に以下の言語の存在を認めている。

  • バレンシア語バレンシア州
  • 宗教[編集]

    中世末期のレコンキスタ完了以前はイスラム教が多数派を占める地域もあったが、現在ではカトリックが94%である。イベリア半島では近代に入って多様な宗教の公認とともに、隠れて暮らしていたユダヤ教徒が信仰を取り戻し始めている。戦争時など様々な折にスペインに「帰還」し、祖国のために闘ったセファルディムもいた。残りは、ムスリムなど。

    なお、国民の大多数がカトリック教徒であるにもかかわらず、近年ではローマ教皇庁が反対している避妊具の使用や同性婚を解禁するなど社会的には政教分離の思想が進んでいる点も特徴である。

    教育[編集]

    サラマンカ大学(1218年創立)の図書館

    スペインの教育制度は初等教育が6歳から12歳までの6年制、前期中等教育が12歳から16歳までの4年制であり、以上10年間が義務教育期間となる。後期中等教育バチジェラトと呼ばれる16歳から18歳までの2年制であり、このバチジェラト期に進路が決定する。2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は97.9%であり[38]、これはアルゼンチン (97.2%) やウルグアイ (98%)、キューバ (99.8%) と並んでスペイン語圏最高水準である。

    主な高等教育機関としては、サラマンカ大学(1218年)、マドリード・コンプルテンセ大学(1293年)、バリャドリード大学(13世紀)、バルセロナ大学(1450年)、サンティアゴ・デ・コンポステーラ大学(1526年)、デウスト大学(1886年)などが挙げられる。大学は4年制ないし6年制であり、学位取得が出来ずに中退する学生の多さが問題となっている。

    結婚[編集]

    結婚前の姓は、一般的には「名、父方の祖父の姓、母方の祖父の姓」であるが、1999年に「名、母方の祖父の姓、父方の祖父の姓」でもよい、と法律が改正された。婚姻によって名前を変える必要はないが、女性はその他の選択肢として「de + 相手の父方の姓」を後置する、「母方の祖父の姓」を「相手の父方の姓」に置き換える、「母方の祖父の姓」を「de + 相手の父方の姓」に置き換える、などの選択が可能である[39]

    2005年より同性婚が可能となった。

    交通[編集]

    スペインの鉄道は主にレンフェ (RENFE) によって経営されており、標準軌(狭軌)路線など一部の路線はスペイン狭軌鉄道 (FEVE) によって経営されている。一般の地上鉄道の他、高速鉄道のAVEが国内各地を結んでいる。

    地上路線の他にも、マドリード地下鉄をはじめ、バルセロナ地下鉄メトロバレンシアなど、主要都市には地下鉄網が存在する。

    文化[編集]

    グラナダ市南東の丘に位置するアルハンブラ宮殿

    情熱的で明るい、気さくなスペイン人という印象が強いが、これはスペイン南部の人々の特徴で北側の人々は違った性格が強い。数百年の歴史を持つ闘牛は世界中に知られている。1991年に創設されたセルバンテス文化センターによって、世界各地にスペイン語やスペイン文化が伝達されている。

    食文化[編集]

    スペイン料理の特徴として素材を生かした調理があり、地方にはそれぞれの地域の特産品を生かした独特の料理がある[40][41]イベリア半島は「ヨーロッパの尾」「アフリカの頭」と言われ、古来から異なる民族・文化・宗教が交差しており、スペインの食文化はイベリア半島の歴史的背景の影響を受けている[42]。スペインは地方によって気候風土、文化、習慣が異なるため、材料やその調理方法は様々で、事実上スペイン料理として一括りにはできない。スペイン料理の地域差を表した言い回しに「スペインのどこに行ってもあるものはワインオルチャータ、クァハダ(素焼きの壺に入れられたヨーグルト)だけ」というものがある[43]。「北では煮込み、中部では焼きもの、南部ではフライ」と、地域ごとの調理法の違いを表した言葉もある[44]。全ての地方料理に共通する事項としては、オリーブオイルが使用されることが挙げられる[45]。2010年にはスペイン料理が、イタリア料理ギリシア料理モロッコ料理とともに「地中海の食事」としてユネスコの無形文化遺産に登録された。

    文学[編集]

    12世紀中盤から13世紀初頭までに書かれた『わがシッドの歌』はスペイン最古の叙事詩と呼ばれている。

    スペイン文学においては、特に著名な作家として世界初の近代小説と呼ばれる『ドン・キホーテ』の著者ミゲル・デ・セルバンテスが挙げられる。

    1492年から1681年までのスペイン黄金世紀の間には、スペインの政治を支配した強固にカトリック的なイデオロギーに文学も影響を受けた。この時代には修道士詩人サン・フアン・デ・ラ・クルス神秘主義や、ホルヘ・デ・モンテマヨールの『ラ・ディアナの七つの書』(1559) に起源を持つ牧歌小説マテオ・アレマンの『グスマン・デ・アルファラーチェ』(1599, 1602) を頂点とするピカレスク小説、『国王こそ無二の判官』(1635) のロペ・デ・ベガ、『セビーリャの色事師と色の招客』(1625) のティルソ・デ・モリーナなどの演劇が生まれた。

    近代に入ると、1898年の米西戦争の敗戦をきっかけに自国の後進性を直視した98年世代と呼ばれる一群の知識人が現れ、哲学者のミゲル・デ・ウナムーノオルテガ・イ・ガセット、小説家のアンヘル・ガニベー、詩人のフアン・ラモン・ヒメネス(1956年ノーベル文学賞受賞)やアントニオ・マチャードなどが活躍した。

    スペイン内戦の時代には内戦中に銃殺された詩人フェデリコ・ガルシア・ロルカなどが活躍し、内戦後にフランコ独裁体制が成立すると多くの文学者が国外に亡命して創作を続けた。フランコ体制期にはラモン・センデールカルメン・ラフォレフアン・ゴイティソーロミゲル・デリーベスらがスペイン内外で活躍した。

    1974年にはスペイン語圏の優れた作家に対して贈られる文学賞としてセルバンテス賞が創設された。民主化以後の1989年にはカミーロ・ホセ・セラノーベル文学賞を受賞している。

    哲学[編集]

    ホセ・オルテガ・イ・ガセット。20世紀の精神に多大な影響を与えた『大衆の反逆』(1929年)で知られる。

    古代ローマ時代に活躍したストア派哲学者の小セネカはコルドバ出身だった。中世において、イスラーム勢力支配下のアル=アンダルスでは学芸が栄え、イブン・スィーナー(アウィケンナ)などによるイスラーム哲学が流入し、12世紀のコルドバではアリストテレス派のイブン・ルシュド(アウェロエス)が活躍した。その他にも中世最大のユダヤ哲学者マイモニデスもコルドバの生まれだった。コルドバにもたらされたイブン・スィーナーやイブン・ルシュドのイスラーム哲学思想は、キリスト教徒の留学生によってアラビア語からラテン語に翻訳され、彼等によってもたらされたアリストテレス哲学はスコラ学に大きな影響を与えた。

    16世紀にはフランシスコ・デ・ビトリアドミンゴ・デ・ソトらのカトリック神学者によってサラマンカ学派が形成され、17世紀オランダフーゴー・グローティウスに先んじて国際法の基礎を築いた。17世紀から18世紀にかけては強固なカトリックイデオロギーの下、フェイホースペイン語版英語版ホベジャーノススペイン語版英語版などの例外を除いてスペインの思想界は旧態依然としたスコラ哲学に覆われた。19世紀後半に入るとドイツ観念論クラウゼ (Krause) 哲学が影響力を持ち、フリアン・サンス・デル・リオと弟子のフランシスコ・ヒネル・デ・ロス・リオスを中心にクラウゼ哲学がスペインに受容された。

    20世紀の哲学者としては、「98年の世代」のキルケゴールに影響を受けた実存主義ミゲル・デ・ウナムーノや、同じく「98年の世代」の『大衆の反逆』(1929年)で知られるホセ・オルテガ・イ・ガセット形而上学の再構築を目指したハビエル・スビリの名が挙げられる。

    音楽[編集]

    クラシック音楽においては声楽が発達しており、著名な歌手としてアルフレード・クラウスプラシド・ドミンゴホセ・カレーラスモンセラート・カバリェテレサ・ベルガンサなどの名を挙げることができる。クラシック・ギターも盛んであり、『アランフエス協奏曲』を残した作曲家のホアキン・ロドリーゴや、ギター奏者のセレドニオ・ロメロペペ・ロメロアンヘル・ロメロ一家、マリア・エステル・グスマンなどが活躍している。

    その他にも特筆されるべきピアニストとしてアリシア・デ・ラローチャホアキン・アチュカーロの名が挙げられる。

    クラシック音楽史に名を残す作曲家としては、バロック音楽ではイタリア出身でスペイン王家に仕えたドメニコ・スカルラッティ近代音楽ではスペインの民謡や民話をモチーフとして利用したマヌエル・デ・ファリャ(特にピアノと管弦楽のための『スペインの庭の夜』、バレエ三角帽子』、同『恋は魔術師』が有名)をはじめ、エンリケ・グラナドスイサーク・アルベニス現代音楽ではホセ・マヌエル・ロペス・ロペスなどがいる。

    隣国フランスの作曲家もスペインをモチーフにした音楽を作曲した例は多く、ジョルジュ・ビゼーオペラカルメン』をはじめ、エドゥアール・ラロの『スペイン交響曲』、エマニュエル・シャブリエの狂詩曲『スペイン』、クロード・ドビュッシーの『管弦楽のための映像(第2曲・イベリア)』、モーリス・ラヴェルの『スペイン狂詩曲』やオペラ『スペインの時計』などがある。

    日本では教育楽器として親しまれているカスタネットは元々スペインの民族楽器であり、またタンブリンもイスラム文化とともにスペインに伝来した経緯があるため、フランスでは特に「バスクのタンブリン」と呼ばれる。上記のスペインやその他の国の作曲家がスペイン風情緒を強調する手段として、これらの打楽器が多用される。

    北部のアラゴンから発祥したホタ、南部のアンダルシア地方のジプシー系の人々から発祥したとされるフラメンコという踊りと歌も有名である。

    美術[編集]

    イスラーム支配下のアンダルスでは、イスラーム式の壁画美術が技術的に導入された。ルネサンス絵画が定着しなかったスペインでは、16世紀に入るとマニエリズムに移行し、この時期にはエル・グレコが活躍している。バロック期にはフランシスコ・リバルタホセ・デ・リベラフランシスコ・デ・スルバランアロンソ・カーノディエゴ・ベラスケスバルトロメ・エステバン・ムリーリョフアン・デ・バルデス・レアルなどが活躍した。18世紀から19世紀初めにかけてはフランシスコ・デ・ゴヤが活躍した。スペイン黄金時代美術を参照

    19世紀末から20世紀半ばまでにかけてはバルセロナを中心に芸術家が創作活動を続け、キュビスムやシュルレアリズムなどの分野でサンティアゴ・ルシニョールラモン・カザスパブロ・ピカソジョアン・ミロサルバドール・ダリジュリ・ゴンサレスパブロ・ガルガーリョなどが活躍した。スペイン内戦後は芸術の古典回帰が進んだ。

    映画[編集]

    スペイン初の映画は1897年に製作された。1932年にはルイス・ブニュエルによって『糧なき土地』(1932) が製作されている。スペイン内戦後は映画への検閲が行われたが、1950年代にはルイス・ガルシア・ベルランガフアン・アントニオ・バルデムらの新世代の映像作家が活躍した。

    民主化以後はホセ・ルイス・ボラウカルロス・サウラマリオ・カムスペドロ・アルモドバルアレハンドロ・アメナバルなどの映像作家らが活躍している。

    観光[編集]

    現在のスペインは世界有数の観光大国となっており、2017年の国際観光客到着数では世界2位、2017年の旅行・観光競争力レポートでは世界1位を記録した。欧州内ではイタリアを上回り、フランスに次ぐ地位にあるが、バルセロナやグラナダ等各地の著名な文化遺産を有することに加えて、コスタ・デル・ソルカナリア諸島を中心とした避寒目的のリゾート需要が、スペインの観光業を支えている。外国人旅行者としてはイギリス人が最も多く、国際観光客到着数全体の2割超の割合を占めている。

    世界遺産[編集]

    スペイン国内には、ユネスコ世界遺産一覧に登録された文化遺産が34件、自然遺産が2件、複合遺産が1件存在する。さらにフランスにまたがって1件の複合遺産が登録されている。

    祝祭日[編集]

    スペイン全国共通の祭日[46]
    日付 日本語表記 スペイン語表記 備考
    1月1日 元日 Año Nuevo
    移動祝祭日 聖金曜日 Viernes Santo 復活祭の2日前の金曜日
    5月1日 メーデー Día del Trabajador
    8月15日 聖母被昇天の日 Asunción
    10月12日 エスパーニャの祝日 Día de la Hispanidad または Fiesta Nacional de España
    11月1日 諸聖人の日 Todos los Santos
    12月6日 憲法記念日 Día de la Constitución
    12月8日 無原罪の聖母の日 Inmaculada Concepción
    12月25日 クリスマス Navidad del Señor

    スポーツ[編集]

    スペインでもっとも盛んなスポーツはサッカーである。1920年のアントウェルペンオリンピックのために創設されたスペイン代表は、同大会で銀メダルを獲得した。1964年には自国開催の1964 欧州ネイションズカップに初出場して初優勝した。2008年のUEFA EURO 2008、2010年の2010 FIFAワールドカップ、2012年のUEFA EURO 2012では主要国際大会で3連続優勝を飾った。FIFAランキングでは2008年から2013年の6年間にかけて世界1位を記録した[47]。国内リーグであるリーガ・エスパニョーラには、レアル・マドリードFCバルセロナなどのクラブがあり、レアル・マドリードはUEFAチャンピオンズリーグの優勝回数が最多である。

    スペインではバスケットボールの人気も高く、国内リーグであるリーガACBはヨーロッパ屈指のレベルとされる。スペイン代表は1984年のロサンゼルスオリンピックで銀メダルを獲得し、2006年バスケットボール世界選手権で優勝し、2008年の北京オリンピックで銀メダルを獲得した。選手としてはNBAでプレーするパウ・ガソルなどがいる。

    自転車ロードレースも伝統的に盛んであり、ツール・ド・フランス史上初の総合5連覇を達成したミゲル・インデュラインをはじめ、フェデリコ・バーモンテスルイス・オカーニャペドロ・デルガドオスカル・ペレイロアルベルト・コンタドールカルロス・サストレがツール・ド・フランスで総合優勝の経験がある。毎年8月末から9月中旬まで開催されるブエルタ・ア・エスパーニャは、ツール・ド・フランスジロ・デ・イタリアとともにグランツール(三大ツール)のひとつとされる。

    近年はモータースポーツも人気を博している。ロードレース世界選手権 (MotoGP) ではマルク・マルケスなどが、世界ラリー選手権ではカルロス・サインツなどが、フォーミュラ1(F1)ではフェルナンド・アロンソなどが総合優勝の経験を持つ。

    テニスの水準も高く、男子ではカルロス・モヤフアン・カルロス・フェレーロラファエル・ナダルが、女子ではアランチャ・サンチェス・ビカリオが世界ランキング1位を経験している。男子の国別対抗戦であるデビスカップでも好成績を収めている。

    伝統的スポーツとしては闘牛がある。近年ではアーティスティックスイミングにおいて独特の表現力で世界的に注目を集めている。

    脚注[編集]

    [脚注の使い方]
    1. ^ スペイン政府、外務省 (Gobierno de España, Ministerio de Asuntos Exteriores y de Cooperación) 発行の文書(日本文、2014年発行)の中で使用されている例(50ページ):高まるスペインの存在感 世界各地のスペイン企業
    2. ^ 1978年憲法では国名について言及している条文はないが、同憲法内ではEspañaという語は23回使われている。またEstado españolという語は2回使われている。国家を意味するEstado(英語のStateに相当)が大文字となっているため、このEstadoは固有名詞の一部と考えられる。しかしReino de Españaという表現は同憲法内では全く使用されていないが、一般には使われることも多い。(Gobierno de España, La Moncloa. Constitución Española (Report). http://www.lamoncloa.gob.es/NR/rdonlyres/79FF2885-8DFA-4348-8450-04610A9267F0/0/constitucion_ES.pdf#search='constitucion+espanola'. 参照)
    3. ^ Acuerdo entre el Reino de de España y Nueva Zelanda, Acuerdo entre el reino de España y el reino de Marruecos Archived 2011年7月20日, at the Wayback Machine.;licenses permissions Tratado de la Unión Europea Archived 25 November 2014 at the Wayback Machine.
    4. ^ “'First west Europe tooth' found”. BBC. (2007年6月30日). http://news.bbc.co.uk/2/hi/science/nature/6256356.stm 2008年8月9日閲覧。 
    5. ^ a b c d e f g h i j Rinehart, Robert; Seeley, Jo Ann Browning (1998年). “A Country Study: Spain - The Golden Age”. Library of Congress Country Series. 2008年8月9日閲覧。
    6. ^ a b Payne, Stanley G. (1973年). “A History of Spain and Portugal; Ch. 1 Ancient Hispania”. The Library of Iberian Resources Online. 2008年8月9日閲覧。
    7. ^ The Treatment of Jews in Arab/Islamic Countries”. 2008年8月13日閲覧。 See also: The Forgotten Refugees”. 2007年9月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年8月13日閲覧。 and The Almohads”. 2009年2月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年8月13日閲覧。
    8. ^ Islamic and Christian Spain in the Early Middle Ages. Chapter 5: Ethnic Relations, Thomas F. Glick
    9. ^ a b c Payne, Stanley G. (1973年). “A History of Spain and Portugal; Ch. 2 Al-Andalus”. The Library of Iberian Resources Online. 2008年8月9日閲覧。
    10. ^ Ransoming Captives in Crusader Spain: The Order of Merced on the Christian-Islamic Frontier”. 2008年8月13日閲覧。 See also: Payne, Stanley G. (1973年). “A History of Spain and Portugal; Ch. 4 Castile-León in the Era of the Great Reconquest”. The Library of Iberian Resources Online. 2008年8月9日閲覧。
    11. ^ Payne, Stanley G. (1973年). “A History of Spain and Portugal; Ch. 5 The Rise of Aragón-Catalonia”. The Library of Iberian Resources Online. 2008年8月9日閲覧。
    12. ^ The Black Death”. Channel 4. 2008年8月13日閲覧。
    13. ^ The Treaty of Granada, 1492”. Islamic Civilisation. 2008年8月13日閲覧。
    14. ^ Spanish Inquisition left genetic legacy in Iberia. New Scientist. December 4, 2008.
    15. ^ エドゥアルド・ガレアーノ収奪された大地_ラテンアメリカ五百年』大久保光夫訳 新評論 1986
    16. ^ Payne, Stanley G. (1973年). “A History of Spain and Portugal; Ch. 13 The Spanish Empire”. The Library of Iberian Resources Online. 2008年8月9日閲覧。
    17. ^ The Seventeenth-Century Decline”. The Library of Iberian resources online. 2008年8月13日閲覧。
    18. ^ Gascoigne, Bamber (1998年). “History of Spain: Bourbon dynasty: from AD 1700”. Library of Congress Country Series. 2008年8月9日閲覧。
    19. ^ (Gates 2001, p.20)
    20. ^ (Gates 2001, p.467)
    21. ^ Spanish Civil War crimes investigation launched, Telegraph, October 16, 2008
    22. ^ Spanish Civil War fighters look back, BBC News, February 23, 2003
    23. ^ Pfanner, Eric (2002年7月11日). “Economy reaps benefits of entry to the 'club' : Spain's euro bonanza”. International Herald Tribune. http://www.iht.com/articles/2002/07/11/a10_18.php 2008年8月9日閲覧。  See also: Spain's economy / Plain sailing no longer”. The Economist (2007年5月3日). 2008年8月9日閲覧。
    24. ^ Al-Qaeda 'claims Madrid bombings'”. BBC. 2008年8月13日閲覧。 See also: Madrid bombers get long sentences”. BBC. 2008年8月13日閲覧。
    25. ^ “カタルーニャ州、独立宣言 スペインは自治権停止承認”. 日本経済新聞. (2017年10月27日). https://www.nikkei.com/article/DGXMZO22805260X21C17A0EA1000/ 2017年10月28日閲覧。 
    26. ^ http://www.sipri.org/research/armaments/milex
    27. ^ 久米邦武編『米欧回覧実記・5』田中彰校注、岩波書店岩波文庫)1996年、126-140頁
    28. ^ 日スペイン外交関係樹立150周年”. 外務省 (2017年12月12日). 2018年2月26日閲覧。
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    30. ^ 日スペイン、戦略的パートナーで合意 両首相が初会談”. 産経新聞 (2018年10月17日). 2018年10月19日閲覧。
    31. ^ フランス vs. スペイン 欧州観光王国の集客術”. 事業構想大学院大学 (2015年10月). 2016年7月24日閲覧。
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    33. ^ スペインの失業率がさらに上昇 (CNN.co.jp) 2011年4月30日
    34. ^ “希望を失うスペイン国民の悲哀”. JBpress (フィナンシャル・タイムズ). (2012年11月6日). http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/36487 [リンク切れ]
    35. ^ 『スペイン経済の歴史』 82頁
    36. ^ 碇 順治 『ヨーロッパ読本 スペイン』 河出書房新社 2008年6月 239頁
    37. ^ 甲斐克則 「スペインにおける臓器移植 バルセロナでの調査から」 比較法学 46(2), 2012年12月
    38. ^ CIA World Factbook "Spain" 2010年11月8日閲覧。
    39. ^ Hispanic Names
    40. ^ フィーブルマン『スペイン/ポルトガル料理』、10-11頁
    41. ^ 横田「スペイン料理」『スペイン・ポルトガルを知る事典』、193-195頁
    42. ^ 『世界の食べもの』合本3巻、145頁
    43. ^ 東谷『スペイン入門』、48頁
    44. ^ 辻『スペイン料理』、138頁
    45. ^ 坂東『現代スペインを知るための60章』、169-170頁
    46. ^ この他に自治州の祝日や自治体単位での祝日がある。
    47. ^ FIFA/Coca-Cola World Ranking - SPAIN Men's Ranking

    参考文献[編集]

    • 岩根圀和『物語スペインの歴史 海洋帝国の黄金時代』中央公論新社〈中公新書1635〉、東京、2002年2月。ISBN 978-4-12-101635-5
    • 牛島信明川成洋坂東省次編『スペイン学を学ぶ人のために』世界思想社、京都、1999年5月。ISBN 9784790707561
    • エドゥアルド・ガレアーノ/大久保光夫訳『収奪された大地 ラテンアメリカ五百年新評論、東京、1986年9月。
    • 田澤耕『物語カタルーニャの歴史 知られざる地中海帝国の興亡』中央公論新社中公新書1564〉、東京、2000年12月。ISBN 978-4121015648
    • 立石博高編『スペイン・ポルトガル史』山川出版社〈新版世界各国史16〉、東京、2000年6月。ISBN 4-634-41460-0
    • 野々山真輝帆『スペインを知るための60章』明石書店〈エリア・スタディーズ23〉、東京、2002年10月。ISBN 4-7503-1638-5
    • 坂東省次、戸門一衛、碇順治編『現代スペイン情報ハンドブック[改訂版]』三修社、東京、2007年10月。ISBN 4-7503-1638-5
    • 渡部哲郎『バスクとバスク人』平凡社〈平凡社新書〉、東京、2004年4月。ISBN 978-4-384-01957-5

    関連項目[編集]

    外部リンク[編集]

  • スペイン政府 (スペイン語)(英語)
  • スペイン大使館経済商務部 (日本語)
  • スペイン情報誌 acueducto (日本語) (スペイン語)(英語)
  • スペインの基本情報 (日本語)