長州藩

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長州藩 外様 36万9千石の位置(日本内)
長州藩 外様 36万9千石
長州藩
外様
36万9千石
長州藩の位置
長州藩邸跡、碑文は屋敷址、京都河原町御池東入ル

長州藩(ちょうしゅうはん)は、江戸時代周防国長門国を領国とした外様大名毛利家を藩主とする。家格は国主大広間詰。

安芸広島を本拠に山陽道山陰道の8か国を領有していた毛利家が関ヶ原の戦いに敗れ、防長二国に領地を削減されたことで成立。以来、250年以上にわたって藩庁を長門国阿武郡萩城に置いていたことから一般的に長州藩と呼ばれ、藩庁を周防国吉敷郡山口山口城(山口政事堂)へ移した山口移鎮後も長州藩と呼ばれている。萩時代を萩藩(はぎはん)、山口時代を山口藩(やまぐちはん)とも呼んで区別する場合もある。明治初年から4年まで、府藩県三治制下では山口藩と称した[1]。また毛利藩と呼ばれることもある[2]

幕末には薩摩藩とともに討幕運動の中心となり、明治維新の原動力となった。明治政府木戸孝允大村益次郎伊藤博文井上馨山縣有朋などの人材を多数輩出した[3][2]

歴史[編集]

中世から江戸時代初期[編集]

毛利元就
一文字に三つ星

藩主の毛利氏大江広元の四男を祖とする一族[2]。鎌倉時代に、越後国佐橋荘を領した毛利経光は、四男の時親に安芸国吉田庄を分与し分家を立てる[4]。時親の子・貞親、孫の親衡は越後に留まり安芸の所領は間接統治という形をとったが[5]、南北朝時代に時親の曽孫・元春は安芸に下向し、吉田郡山城にて領地を直接統治[6]するようになる。戦国時代毛利元就が出ると一代にして国人領主から戦国大名に脱皮、大内氏の所領の大部分と尼子氏の所領を併せ、最盛期には中国路10か国と九州北部の一部を領国に置く最大級の大名に成長した。

元就の孫の毛利輝元豊臣秀吉に仕え、天正19年(1591年)3月、安芸・周防・長門・備中半国・備後伯耆半国・出雲石見隠岐の112万石を安堵(石見銀山50万石相当、また以前の検地では厳密にこれを行っていなかったことを考慮すると実高は200万石超)され、本拠を吉田郡山城からより地の利の良い広島に移す。

秀吉の晩年には五大老の一人に推され、関ヶ原の戦いでは西軍石田三成方の名目上の総大将として担ぎ出され大坂城西の丸に入ったが、主家を裏切り東軍に内通していた従弟の吉川広家により徳川家康に対しては敵意がないことを確認、毛利家の所領は安泰との約束を家康の側近から得ていた。ところが戦後、家康は広家の弁解とは異なり、輝元が西軍に積極的に関与していた書状を大坂城で押収したことを根拠に、一転して輝元の戦争責任を問い、所領安堵の約束を反故にして毛利家を減封処分とし、輝元は隠居となし、嫡男の秀就に周防・長門2か国29万8480石2斗3合[7]を与えることとした。実質上の初代藩主は輝元であるが、形式上は秀就である。また、秀就は幼少のため、当初は輝元の従弟の毛利秀元と重臣の福原広俊益田元祥らが藩政を取り仕切った。

慶長12年(1607年)、領国を4分の1に減封された毛利氏は新たな検地に着手し、慶長15年(1610年)に検地を終えた。少しでも石高を上げるため、この検地は苛酷を極め、山代地方(現岩国市錦町本郷町)では一揆も起きている。この検地では結果として53万9268石余を打ち出した。慶長18年(1613年)、この時江戸幕府に提出する御前帳が以後の毛利家の公称高となるため、慎重に幕閣と協議した。ところが、思いもよらぬ50万石を超える高石高に驚いた幕閣(取次役は本多正信)は、敗軍たる西軍の総大将であった毛利氏は50万石の分限ではないこと(特に東軍に功績のあった隣国の広島藩福島正則49万8000石とのつりあい)、毛利家にとっても高石高は高普請役負担を命じられる因となること、慶長10年御前帳の石高からの急増は理に合わないことを理由に、石高の7割である36万9411石3斗1升5合を表高として公認した。この表高は幕末まで変わることはなかったが、その後の新田開発などにより、実高(裏高)は寛永2年(1625年)には65万8299石3斗3升1合、貞享4年(1687年)には81万8487石余であった。宝暦13年(1763年)には新たに4万1608石を打ち出している。幕末期には100万石を超えていたと考えられている。

また、新しい居城地として防府・山口・の3か所を候補地として伺いを出したところ、これまた防府・山口は分限にあらずと萩に築城することを幕府に命じられた。萩は防府や山口と異なり、三方を山に囲まれ日本海に面し、隣藩の津和野城の出丸の遺構が横たわる鄙びた土地であった。

上述のような経緯もあり、長州藩では倒幕が国是であるとの噂があった。巷説の一つに、新年拝賀の儀で家老が「今年は倒幕の機はいかに」と藩主に伺いを立て、藩主が「時期尚早」と答える習わしがあったとの俗話が知られる。昭和2年(1927年)、歴史学者の井野辺茂雄が『幕末史の研究』において、毛利家の家史編纂者である中原邦平から聞いた話として著作に紹介している。井野部の記述では、毎月元日[8]、諸藩士が登城する前に藩主が「もうよかろうか」と言い、近臣が「まだお早う御座います」と返すというものであったとしている[9]。ただしこれは古老による伝承であると断っており、「後世にはなかった」としている[9]。この俗話について、2000年当時の毛利家当主・毛利元敬は「あれは俗説」と笑い、「明治維新の頃まではあったのではないか」という問いに「あったのかもしれないが、少なくとも自分が帝王学を勉強した時にはその話は出なかった」と答えている[10]

江戸時代中期[編集]

毛利重就

江戸時代中期には、第7代藩主毛利重就が、宝暦改革と呼ばれる藩債処理や新田開発などの経済政策を行う。文政12年(1829年)には産物会所を設置し、村役人に対して特権を与えて流通統制を行う。天保3年(1831年)には、大規模な長州藩天保一揆が発生。その後の天保8年(1836年4月27日には、後に「そうせい侯」と呼ばれた毛利敬親が藩主に就くと、村田清風を登用した天保の改革を行う。改革では相次ぐ外国船の来航や中国でのアヘン戦争などの情報で海防強化も行う一方、藩庁公認の密貿易で巨万の富を得た。

村田の失脚後は坪井九右衛門椋梨藤太周布政之助などが改革を引き継ぐが、坪井、椋梨と周布は対立し、藩内の特に下級士層に支持された周布政之助が安政の改革を主導する。

幕末[編集]

幕末になると長州藩は公武合体論尊皇攘夷を拠り所にして、おもに京都で政局に影響を与える存在になる。また藩士吉田松陰の私塾(当時の幕府にとっては危険思想の持ち主とされ事実上幽閉)松下村塾で学んだ多くの藩士がさまざまな分野で活躍、これが倒幕運動につながってゆく。

1863年文久3年)旧4月には、激動する情勢に備えて、幕府に無断で山口に新たな藩庁を築き、「山口政事堂」と称する。敬親は萩城から山口(中河原の御茶屋)に入り、幕府に山口移住と新館の造営を正式に申請書を提出し、山口藩が成立した(山口移鎮)。これにより、萩藩は(周防)山口藩と呼ばれることとなった。同年、会津藩薩摩藩が結託した八月十八日の政変で京都から追放された。

馬關戰争圖』(部分) 藤島常興 筆、下関市市立長府博物館 収蔵

同年長州藩は攘夷親征の朝旨を実現するため、攘夷実行開始期日の1863年5月10日に下関海峡を通過する列強諸国の軍艦に砲撃を加えた。幕府の統治能力では攘夷運動を抑止できないと判断したアメリカ合衆国イギリスフランスオランダの列強四か国は、攘夷運動の本拠地である長州藩に対して直接武力行使に出ることにし、4か国連合艦隊を下関に向かわせた。この事態に藩上層部は、ロンドンから急遽帰国した伊藤俊輔(伊藤博文)や井上馨らの制止も聞かず、列強諸国の賠償金支払い要求を拒否したため、1864年元治元年)8月に下関戦争が発生した。列強諸国の圧倒的火力の前に長州藩の砲台は破壊されて降伏と賠償金支払いを余儀なくされた。この事件を契機として攘夷論は不可能であることが藩内で認識されるようになり、列国に接近して藩軍の装備を洋式化しつつ倒幕を目指す藩論が強まった[11]。またこの事件によって武士階級の無力さが暴露される形となった。上海でアジア最大の大国である中国半植民地化を目の当たりにした藩士高杉晋作は、安政期以降の長州藩軍制改革の成果に立って藩主の信認のもとに、1863年6月に身分に関わらず志があれば力量本位で参加できる軍隊奇兵隊を創設した[12]

禁門の変

1864年(元治元年)の池田屋事件禁門の変で打撃を受けた長州(山口)藩に対し、幕府は徳川慶勝を総督とした第一次長州征伐軍を送った。長州(山口)藩では椋梨ら幕府恭順派(俗論派)が実権を握り、周布や家老・益田親施らの主戦派は失脚して粛清され、藩主敬親父子は謹慎し、幕府へ降伏した。その後、完成したばかりの山口城を一部破却して、毛利敬親・元徳父子は長州萩城へ退いた。

恭順派の追手から逃れていた主戦派(正義派)の藩士高杉晋作は、1865年(慶応元年)に奇兵隊など諸隊の力を得て下関功山寺で挙兵し、美祢郡大田・絵堂の戦いで俗論派を破った(功山寺挙兵)。この後、潜伏先より帰って来た桂小五郎(木戸孝允)を加え、俗論派にかわって再び正義派が政権を握り、藩論は武備恭順に転換した。この方針に従って村田蔵六(大村益次郎)が登用され、彼の主導下で藩の軍制改革が実施された。特別資金であった撫育方の貯蓄金を放出して銃器や艦船など装備の洋式化を図って幕府の再征に備えた[13]

1865年に土佐藩坂本龍馬亀山社中の仲介でイギリス軍艦ユニオン号薩摩藩名義で50,000両で購入し[14]、これがきっかけとなって薩摩藩との関係が改善し、1866年慶応2年)には、坂本龍馬や中岡慎太郎を仲介として長州藩の木戸孝允と薩摩藩の西郷隆盛小松帯刀らが京都薩摩藩邸(京都市上京区)において会談し、6カ条からなる薩長同盟を締結。倒幕の機運は高まった[15]。又、旧5月に敬親が山口に戻った事で(周防)山口藩が再び成立する。

1866年(慶応2年)6月に14代将軍徳川家茂は諸藩の反対が強い中で第二次長州征伐を強行したが、高杉と大村益次郎の軍略により、長州藩は四方から押し寄せる幕府軍を打ち破り、第二次幕長戦争(四境戦争)に勝利する。7月に大阪城で家茂が死去すると幕府軍は撤退を決定。長州藩に敗北した幕府の威信は急速に弱まり、大政奉還へとつながった[15]

明治時代初期[編集]

1867年(慶応3年)秋、幕府の権威失墜が止まらない中、15代将軍徳川慶喜大政奉還を行い、江戸幕府は崩壊した。大政奉還を受けて明治天皇より王政復古の大号令が発せられ、新政府が発足した。薩摩藩の大久保利通や西郷隆盛と共に長州藩の木戸孝允が参与(後に参議)として参加し、新政府の中枢の一人となった(高杉晋作は大政奉還直前に死去)。木戸は五箇条の御誓文の起草にあたり、また封建領主制度の改革の必要を大久保に進言し、この構想は1869年(明治2年)の版籍奉還に繋がった。1871年(明治4年)の廃藩置県でも主導的役割を果たしている[16]

鳥羽・伏見の戦い。左が桑名藩などの幕府軍、右が長州藩などの新政府軍。
戊辰戦争での長州藩の旗[17]

1868年の戊辰戦争では、藩士の大村益次郎上野戦争などで活躍した[18]

戊辰戦争のうち会津戦争やその戦後処理によって会津藩会津若松市)と長州藩(萩市)の間には今でも複雑な感情が残っているともいわれるが、実際は、長州藩軍は北越の戦いで進軍が遅れたため、会津戦争では戦闘を行なっておらず、また占領統治を指揮する立場でもなかった。現代の観光都市化の流れの中で現れた戦後会津の観光史学により、事実が歪められているという議論も行われている。

1869年明治2年)旧11月には常備軍編成に関する不満から山口藩諸隊による反乱(脱隊騒動)が起こり、一時は山口藩庁が包囲されたが、木戸孝允が常備軍を指揮して鎮圧した[19]

1870年10月14日(明治3年9月10日)に、府藩県三治制による藩制が定められ、それまで通称的な呼称であった「藩」が正式な呼称となる。山口藩は、山口に藩庁を置いていたため「山口藩」を正式名称とすることになった[1]

明治4年(1871年)旧6月、山口藩は支藩の徳山藩と合併し、同年8月29日(旧7月14日)の廃藩置県で山口藩は廃止され、山口県となった[20]。毛利家当主元徳は藩知事免官後、東京へ移って公爵に叙され、第15国立銀行頭取や貴族院議員を歴任した[21]

支藩・家臣団[編集]

藩邸[編集]

  • 江戸藩邸は日比谷御門外に上屋敷、中屋敷は青山に、下屋敷は鰻沢と渋谷にあった。その後外桜田に中屋敷、麻布に下屋敷を移す。また京都藩邸は河原町大阪藩邸は田部屋橋に、伏見藩邸は京橋、長崎藩邸は新丁にあった。後に江戸幕府に没収される。
  • 上屋敷は現在、日比谷公園の一部。左に上杉家(米沢藩)、右に伊達家(仙台藩)の上屋敷[22]。『江戸図屏風』では伊達・上杉両家と比べ規模はほぼ同じだが、御成御殿や御成門[23]もなく質素に描かれている。

菩提寺[編集]

藩祖・毛利輝元と同夫人は死後その隠居宅だった萩の四本松邸跡地に建立された菩提寺・天樹院に葬られた。天樹院は明治維新後廃寺となったが墓石は残り、同地は旧天樹院墓所として国の史跡になっている。初代秀就、2代綱広、4代吉広、6代宗広、8代治親、10代斉煕、12代斉広とその夫人は大照院に、3代吉就、5代吉元、7代重就、9代斉房、11代斉元とその夫人は東光寺に葬られている。江戸での菩提寺は愛宕の青松寺で、ここは支藩の徳山藩も菩提寺としていた。そのほか支藩の長府藩と清末藩は芝の泉岳寺を江戸の菩提寺としていた。

歴代藩主一覧[編集]

歴代藩主の肖像は全て現存しており、毛利報公会が所蔵している。「萩市史・第一巻」に掲載されている。

代(毛利) 代(藩主) 氏名(よみ) 官位・官職 就封 在任期間 前藩主との続柄・備考
54 0 毛利輝元
もうり
てるもと
従三位権中納言 遺領相続 慶長5 - 元和9 毛利隆元 正室の子
55 1 毛利秀就
— ひでなり
従四位下長門守
右近衛権少将
家督相続 元和9 - 慶安4 毛利輝元 側室の子
56 2 毛利綱広
— つなひろ
従四位下・大膳大夫侍従 遺領相続 慶安4 - 天和2 毛利秀就 正室の子
57 3 毛利吉就
— よしなり
従四位下・長門守、侍従 家督相続 天和2 - 元禄7 毛利綱広 正室の子
58 4 毛利吉広
— よしひろ
従四位下・大膳大夫、侍従 遺領相続 元禄7 - 宝永4 養子、毛利綱広 側室の子・吉就弟
59 5 毛利吉元
— よしもと
従四位下・長門守、侍従 遺領相続 宝永4 - 享保16 養子、長府藩主 毛利綱元 長男
60 6 毛利宗広
— むねひろ
従四位下・大膳大夫、侍従 遺領相続 享保16 - 宝暦 毛利吉元 正室の子
61 7 毛利重就
— しげたか
従四位下・式部大輔、侍従 遺領相続 宝暦元 - 天明2 養子、長府藩主・毛利匡広の十男
62 8 毛利治親
— はるちか
従四位下・大膳大夫、侍従 家督相続 天明2 - 寛政3 毛利重就 正室の子
63 9 毛利斉房
— なりふさ
従四位下・大膳大夫、侍従 遺領相続 寛政3 - 文化6 毛利治親 正室の子
64 10 毛利斉熙
— なりひろ
従四位下・大膳大夫、侍従 遺領相続 文化6 - 文政7 毛利治親 正室の子・斉房弟
65 11 毛利斉元
— なりもと
従四位上・大膳大夫
左近衛権少将
家督相続 文政7 - 天保7 養子、毛利斉元は毛利親著の六男で、
毛利斉熙の婿養子
毛利親著は毛利重就の側室の子。毛利匡芳の同母弟。
66 12 毛利斉広
— なりとう
従四位下・大膳大夫   天保7年12月
- 12月29日
養子、毛利斉熙 正室の子・次男
67 13 毛利敬親
— たかちか
従四位下・大膳大夫 遺領相続 天保8年4月
- 明治2年1月
養子、毛利斉元 側室の子(長男)
毛利斉広の娘婿
明治2年1月 版籍奉還
68 14 毛利元徳
— もとのり
従三位参議   明治2年1月
- 明治4
養子、徳山藩主・毛利広鎮の十男

藩の職制[編集]

以下は「萩市史」や「図録古文書入門事典」(柏書房)で『防長回天録』や『もりのしげり』をもとに作成された組織表をもとに記載。

藩主直轄[編集]

  • 手廻頭
    側近の長。寄組より任命。後に実権が奥番頭に移り、礼法儀式だけを行う閑職となる。
  • 直目付
    武鑑では就任者は「側用人」として掲載されることがある。
  • 加判
    家老衆。

手廻頭配下[編集]

  • 記録所役
    他藩の用人相当。
  • 奥番頭
    記録所役担当以外の藩主側近業務の一切を統括。武鑑では直目付同様に側用人の項目に掲載されている就任者もいる。また、「萩市史」では別名を側用人ともある。
  • 小姓
    『萩の古幹』によれば人員20人。

記録所役配下[編集]

加判役配下[編集]

  • 国元留守居家老
    配下に手元役。
  • 当職
    地方職座とも
  • 江戸留守居家老
    配下に手元役。
  • 当役
    江戸職座とも
  • 組頭
    八組ある大組の長。寄組より就任。
  • 無給通総頭
    無給通士を統括
  • 徒士総頭
    徒士を統括。
  • 大頭
    先手足軽を統括する大組物頭(別名を足軽大将)を統括。
  • 御手廻物頭
    手廻足軽を統括
  • 船手組頭
    船手組士を統括
  • 旗奉行
  • 鎗奉行
  • 使番
  • 明倫館総奉行

当職配下[編集]

郡奉行配下[編集]
  • 代官
    大組士より任命。勘定役、算用役、寺社役、山方、普請方、記録方、番所方を統括。
大組頭支配[編集]
  • 表番頭
    大組頭不在時に、その代行を勤める。
  • 大組番頭
    大組士を統括。

当役配下[編集]

  • 当役副使
  • 用談役
  • 手元役
  • 右筆役
  • 用所役
  • 矢倉頭
  • 江戸大検使

幕末の領地[編集]

上記のほか、明治維新後に石狩国樺戸郡雨竜郡天塩国増毛郡留萌郡を管轄した。

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ a b 『日本歴史地名体系 山口県の地名』平凡社出版
  2. ^ a b c 長州藩”. 日本大百科全書. コトバンク. 2015年12月6日閲覧。
  3. ^ 萩城:幕末時は多くの志士を生み討幕への起爆剤となった長州藩萩城(指月城)(2014年8月5日時点のアーカイブ
  4. ^ 越後国佐橋荘は嫡男の基親が相続した。
  5. ^ 毛利貞親・親衡は越後の毛利領を拠点に南朝に味方し活動。
  6. ^ 吉田郡山城の築城者といわれる時親が曾孫の元春を後見した。
  7. ^ 慶長5年の検地による石高。慶長10年(1605年)の毛利家御前帳にも同様の石高が記載。
  8. ^ 原文ママ。『幕末史の研究』の記述においては、この儀式の後に「年賀の儀式に移る」とされている
  9. ^ a b 井野辺茂雄『幕末史の研究』(雄山閣、1927年)283-284頁
  10. ^ 「関ヶ原四〇〇年の恩讐を越えて」『文藝春秋』2000年10月号(毛利家71代当主毛利元敬、島津家32代当主島津修久、黒田家16代当主黒田長久、山内家18代当主山内豊秋、司会半藤一利)※毛利家では慣習上、天穂日命を初代として数えるため現当主は71代と公称している。
  11. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 四国艦隊下関砲撃事件(コトバンク)
  12. ^ 世界大百科事典 第2版 奇兵隊(コトバンク)
  13. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ) 長州征伐(コトバンク)
  14. ^ 長州藩主が龍馬に短刀? 「吉光」が坂本本家筋に伝承 高知新聞2017年11月25日
  15. ^ a b 百科事典マイペディア 薩長同盟(コトバンク)
  16. ^ 朝日日本歴史人物事典 木戸孝允(コトバンク)
  17. ^ 中西立太「日本の軍装」、2006年
  18. ^ 大辞林 第三版 上野戦争(コトバンク)
  19. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)脱隊騒動(コトバンク)
  20. ^ 藩名・旧国名がわかる事典 長州藩(コトバンク)
  21. ^ 朝日日本歴史人物事典 毛利元徳(コトバンク)
  22. ^ 『毛利家文書』「江戸桜田上屋敷指図(寛政8年)」
  23. ^ 慶長15年(1610年)に秀忠の上杉邸への御成りがあり、能や茶会などの饗応が行なわれている。(「国宝 上杉家文書」)

参考文献[編集]

  • 末松謙澄著・編纂『防長回天史』1911年、 1991年復刻
  • 時山弥八『もりのしげり』1916年
  • 『萩市史 第一巻』 萩市史編纂委員会
  • 橋本博『大武鑑・中巻』名著刊行会、1965年
  • 児玉幸多北島正元監修『藩史総覧』新人物往来社1977年
  • 『別冊歴史読本㉔ 江戸三百藩 藩主総覧 歴代藩主でたどる藩政史』新人物往来社、1977年
  • 中嶋繁雄『大名の日本地図』文春新書2003年

関連項目[編集]

先代:
長門国周防国
行政区の変遷
1600年 - 1871年 (萩藩→山口藩→山口県)
次代:
山口県